2015年8月31日月曜日

第21回 能楽座自主公演 《海士・解脱之伝》後場

能楽座自主公演《海士・解脱之伝》前場のつづき

茂山茂さんのアイ語りのあと、いよいよ後場。

(能楽座のパンフレットには上演される舞囃子・狂言・能の全詞章が掲載。
間狂言の詞章まで載っているのでとっても親切で分かりやすい。)


常よりも荘重な出端の囃子にのって揚幕があがると、
暗闇の奥から龍女(?)の姿をした後シテ・片山九郎右衛門があらわれる。

観世水模様の金地をあしらった純白の舞衣に紅地模様大口。
頭には白蓮の天冠を戴き、経巻を持った左手を前方に差し出したまま、
海面を滑るように、橋掛りをスーッと平行移動して進んでくる。

パンフレットには「龍女」と書かれているけれど、
「解脱之伝」の後シテは、龍女から男子を経て、
解脱する存在へと進んだ変成男子の最終段階ではないだろうか。
(龍女だったら頭に戴くのは蓮の天冠ではなく、輪冠龍戴だろうし。)



九郎右衛門さんは何をやってもうまいけれど、
こういう神々しい役柄がほんとうによく似合う。

人間離れしたこの世のものではない清らかさ、崇高さ。
そして男女の別を超越した、両性具有的な高貴な色香。

後光のようなまばゆい光が全身から放たれているようにも見える。

後シテは、ふつうの人間には出せない不思議なスピード感で一の松まで進み、
「寂冥無人声」で正面に向き直り、見所を厳かに見下ろす。

伏し目がちな増の面の憂いと慈愛をたたえたまなざしが、
日本の聖母・狩野芳崖の悲母観音を彷彿とさせる。


一の松でポーズを取ったあと、シテはシテ柱を過ぎたあたりで動きを減速させ、
水鳥が羽ばたく直前にするように身体をほんの少し伸びあがらせて一瞬静止し
足だけ先に向きを変えてから、身体全体の向きを変えて舞台へ入る。


九郎右衛門さんのこの流麗な序破急の一連の所作が
とても優雅で気品にあふれていて、いつもぼーっと見惚れてしまう。
天冠の瓔珞が微かに揺れるリズムさえ優婉な趣を添えている。


シテはワキ座手前に向かうと、床几から下りて下居した子方(長山凛三)に経巻を渡す。
子方はこれを広げて、シテが舞っているあいだずっと読み続けているのだけれど、
凛三くん、さすがです。
忍耐強く、微動だにせず、きれいな姿勢で巻物に目を注ぎ続けていた。
舞も群を抜いて光ってるし、たぶん十年に一度出るか出ないかの逸材なんだろうな、
この子方さんは。


そしてここからシテはイロエに入っていく。
このときの舞姿をなんと表現すればいいのだろう。

面と装束の力を最大限に引き出して、自己の存在そのものを
一瞬で消えてゆく甘美な夢のような芸術作品にしたのが九郎右衛門さんの舞だった。

いまわたしが記録しているのは、はかない夢の残像。
その束の間のきらめきは心のなかで美化され理想化されて、
宝石のような結晶のカケラとなって記憶に刻まれていく。


イロエはあっという間に終わりに近づき、
(出血大サービスで早舞も舞ってほしかったけれどそれは小書的に無理?)、
シテは背筋を伸ばしたままスーッと膝を屈して、合掌。
その後立ち上がり、袖を翻して、常座で留拍子。

わたしの気持ちが多分に投影されているからだろう、
シテも心なしか名残惜しそうに見える。


そのままシテは橋掛りをわたり、揚幕の奥へと消え去った。

あとに残されたのは感動と、虚脱感、喪失感。


(夏の終わりは、なんとなく感傷的になるのです。)




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