2015年8月30日日曜日

第21回 能楽座自主公演 金春惣右衛門・片山幽雪・近藤乾之助 偲ぶ会

            
2015830日(日)気温24度 曇り時々雨 14時半~17時45分 国立能楽堂

舞囃子 《安宅・延年之舞》 大槻文蔵
    松田弘之 大倉源次郎 安福光雄
    地謡 長山桂三 梅若紀彰 観世銕之丞 馬野正基


独吟  《海道下り》  野村萬


舞囃子 《天鼓》  高橋章
     藤田次郎 大倉源次郎 安福光雄 観世元伯→不在(大小楽の誤り)
     地謡 金井雄資 大坪喜美雄 武田孝史 大友順


独吟 《砧・待謡》 宝生閑→宝生欣哉(怪我のため)


一調 《西行桜》 梅若玄祥×観世元伯


狂言 《二千石》 主人 野村万作 太郎冠者 茂山千五郎
               後見 山下守之 深田博治


能 《海士・解脱之伝》海人 観世銕之丞 龍女 片山九郎右衛門
        藤原房前 長山凜三  浦の男 茂山茂
      従者 福王茂十郎 茂山茂 矢野昌平
    藤田六郎兵衛 幸正昭 山本哲也 三島元太郎
    後見 大槻文蔵 分林道冶 長山桂三
    地謡 梅若玄祥 梅若紀彰 山崎正道 馬野正基
       角当直隆 梅田嘉宏 川口晃平 観世淳夫

 
 

おもに追善にちなむ演目で構成された第21回能楽座自主公演。
能楽座ならではの趣向が凝らされていて、夏の最後を飾るにふさわしい贅沢な会だった。


舞囃子 《安宅・延年之舞》
文蔵師の大きな魅力のひとつが、序破急の繊細なグラデーション。
舞や謡に緩急やメリハリをつけるのは大事なのだけれど、名人になればなるほど、
それがゴツゴツした感じではなく、実になめらかかつ自然で、
作為や計算をまったく感じさせない。
どれほどわずかな動きでも、どれほど微小な「間」でも、
なにが美しく、なにが美しくないかを、きっと本能的に知り抜いていて、
一瞬一瞬、より美しいものを直感的に選択しているのかもしれない。

その一瞬ごとの選択によって、彼の舞う時間と空間が
それまで見たことのない美しい色に染められてゆく。


男らしい延年之舞でも角張ったところがまったくなく、
激流を下ってきた天然石のような豊かな丸みを帯びている。

エイッいう掛け声のあと、両足で飛びあがらなかったのは、
数珠を振り上げた拍子に、珠が飛び散ったからだろうか。
その後も、本来ならば2度ジャンプするはずだけれど、ここでも飛びあがらず。
珠の上に着地して転倒すると危ないので、致し方ない。


長年の稽古によって身体に沁み込んだ美の芳香がおのずと滲み出て
能楽堂を気品のある香りで満たすような舞姿だった。



舞囃子 《天鼓》
チラシには元伯師の名前が載っていたので、観世流の「弄鼓之舞」のような太鼓入り盤渉楽かと思っていたら、当日のパンフレットでは大小楽になっていて大ショック! Σ(T□T)
もう1月以上も元伯さんの太鼓を聴いてないため禁断症状が……。

藤田次郎師の笛がとてもきれいだった。
源次郎師はもちろん、安福光雄さんも安定していて好きな大鼓方さん。

地謡は謡いの上手い宝生流の精鋭を集めましたという感じで、きっちりした端正な謡。
(個人的には大友順師がとくにうまいと思う。)

高橋章師の舞は宝生流らしく、重心をきわめて低く取る。

足拍子が速くなりがちなどと思ってしまうのは、
うまい人だけにほんのわずかな瑕瑾でも目立ってしまうせいだろう。

きれいで、折り目正しい舞囃子でした。



独吟《砧・待謡》
危惧していた通り、宝生閑師はお休みだった。

わたしが閑師の《砧》をはじめて拝見した時のことは忘れられない。
喉から絞り出すように出た「無慙やな」のかすれた声で完全にノックアウト。
じーんと涙があふれてきた。
この声なら、この言葉なら、怨みつらみも晴れて成仏できると思った。
これほどまでに亡霊を癒す声があるだろうか。

だからこの待謡を楽しみにしていたのだけれど、
今日の欣哉師は代役ながら素晴らしかった。
声のかすれ方、間の取り方、抑揚の付け方、聴く者の心の奥深くにぐっと突き刺さるような語り方まで、閑師にそっくりで、芸は確かに受け継がれていると実感した。

今のところ、ワキ方でいちばん好きなのが欣哉さんだ。
これからもこの声と語りに癒されていくのだろう。

閑師の容態は気になるけれど、ハートネットTVで見たあのお辛そうなお姿を思い出すと、
どうかお身体をお大事にして、休養なさってくださいと祈るような気持ちになる。
舞台人にとっては舞台に立てないことのほうが辛いのかもしれないけれど。




一調 《西行桜》
玄祥師の謡に元伯師の太鼓。  極上の一調。

待てしばし、待てしばし、夜はまだ深きぞ、白むは花の影なりけり


深い夜が花の影から薄らいでいく。
夜と曙のあわい。
その微妙な余白と陰影を音によって表現したような2人の一調だった。




狂言 《二千石》
こうした異流共演ってたまにあるらしいけれど、わたしは初めて。
たぶん、観る人が観ればすごいのかもしれない。
ふつうに楽しかったし、家の芸の継承をことほぐというのは、本公演のテーマにぴったりだと思った。
それ以上のことは今のわたしには分からない。



第21回能楽座自主公演《海士・解脱之伝》前場後場につづく。



                

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