2016年10月28日金曜日

高千穂の夜神楽~岩戸三番・御神体

2016年10月25日(火) 13時30分~17時20分 国立能楽堂
高千穂の夜神楽~式三番・住吉からのつづき
地謡座にお囃子、囃子座に祭壇が据えられている。
祭壇の前には岩戸の作り物。
内注連は一重で、天蓋がないのが日之影神楽との大きな違い。

高千穂の夜神楽(三田井地区神楽)
(1)神颪 (2)杉登 (3)住吉
(4)手力雄(5)鈿女 (6)戸取 (7)御神体



第Ⅱ部は岩戸神話にもとづく岩戸四番のうちの三番と、豊穣神楽「御神体」が上演された。
いずれも神楽面を使用した舞なので、より神楽らしい雰囲気に。
橋掛りや脇正面があるおかげで、ホールと比べて舞台との一体感も高まった。


(4)手力雄

(4)手力雄(たぢからお)
能《絵馬》などでもお馴染みの手力雄。
ここでは、採物に岩戸幣(いわとび)と鈴を持ち、天照大神が天岩屋戸のどこに隠れているかを探る舞を舞う。

天・水をあらわす青(緑)の山冠と、地・火をあらわす横冠の岩戸幣を採物とすることから、天地を祓う神楽ともされている。



(5)鈿女

(5)鈿女
高千穂夜神楽の鈿女の舞は、しっとり嫋やか。
採物は、赤い鈿女幣と扇。

鈿女にかぎらず高千穂の夜神楽に登場する女体(女神)は、奥ゆかしく穏やかに微笑む女性ばかり。
九州男児の理想が投影されているのかも。



(6)戸取

(6)戸取(ととり)
天岩屋戸を取り払う舞。
同じ手力雄でも、(4)手力雄の白い神楽面とは異なり、ここでは赤い神楽面によって、岩戸を力一杯取り払う手力雄の紅潮した顔をあらわしている。

画像は襷をかけているところ。


岩戸を取り払った瞬間!




(7)御神体~能楽堂の空間を生かし、橋掛りを通って登場

(7)御神体
イザナギ・イナザミが舞う酒こし・国産みの舞。
夜中に舞われることから「目覚まし神楽」とも呼ばれるという。

男女和合をあらわす舞でもあり、五穀豊穣・夫婦円満・子授安産の祈願も込められている。

(7)御神体~新穀で酒を醸す舞



男女和合・夫婦円満
この後、イザナギ・イザナミが見所に降りて、観客に絡み、イザナギが浮気をして女性に抱きつくとイザナミがぷんぷん怒り出す。
でも最後は、二人が再び舞台に上がって仲好くじゃれ合い、めでたしめでたし。

こうした感染呪術(かまけわざ)によって、五穀豊穣・子孫繁栄が祈願される。



イザナギ・イザナミとも、相当古く良い面が使われていた。

イザナミの面は、おかめやお多福、乙(おと)と呼ばれる狂言面の原型と思われる。
おそらく鈿女にも転用されるのだろう。
福々しく、平穏で、じつに美しい面だった。
舞手も名品の面にふさわしく、とても可愛らしい癒し系のイザナミを演じていらっしゃった。
こういう女性になりたいものだ。

最後は演者が舞台から見所に降りて、紅白餅を観客に配って幸せのおすそ分け。
観客も、皆さん、幸せそうな笑顔。


神楽の魅力にますますはまりそう。
素敵な公演、ありがとうございました!





高千穂の夜神楽~式三番・住吉

2016年10月25日(火) 13時30分~17時20分 国立能楽堂
高千穂の夜神楽~講演編からのつづき
榊の木を四方に立てた能舞台が、神楽の神庭(こうにわ)となり、
彫り物(えりもの)という切り絵や御幣をつけた内注連(うちじめ)によって結界が張られている。

高千穂の夜神楽(三田井地区神楽)
(1)神颪 (2)杉登 (3)住吉
(4)手力雄(5)鈿女 (6)戸取 (7)御神体


いよいよ高千穂夜神楽の公演!
先日のホールに比べると、お囃子の響きも能楽堂のほうがはるかにいい。
本公演も写真撮影OKだったので、忘れないうちに掲載します。
(神楽の説明の一部は公演パンフレットを参考にしました。)


(1)神颪(かみおろし)

(1)神颪(かみおろし)
神庭(こうにわ)と呼ばれる神楽宿の神殿(御神屋みこうや)を祓い清め、諸神を招じる舞。
神前に拝して五方の舞を舞い、続いて畳扇・開扇の四方の舞を納める。

神颪は、神楽の式三番のひとつ。
先日の日之影神楽と同様、袖(直垂の露にあたる箇所)をとる所作をするなど、能楽の式三番との共通性が見られる。

神颪では、牛王(ごおう)・妙見神を勧請する唱教が唄われる。





(2)杉登~二人舞

(2)杉登~二人舞
杉を神籬(ひもろぎ)の依り代として氏神が御降臨される舞。
上の画像は、杉登の最初に舞われる「神招きの二人舞」。

杉登も神楽式三番のひとつとされ、画像に見られるように、袖を巻き上げる所作があり、よりいっそう能楽との関連がうかがえる。



(2)杉登~入鬼神の舞


(2)杉登~入鬼神(いれきじん)の舞
杉登の中盤で舞われる舞。
入鬼神とは、神人一体の状態をあらわしている。

使われる鬼神面は高千穂神社所蔵(神宝?)の600~700年前の古い面。
相当良い面で、舞台もグッと引き締まって見えた。


その後、鎮魂の後舞として、開扇の二人舞が舞われる。




(3)住吉

(3)住吉
和歌の神・住吉神を讃える四人舞。
言霊(ことだま)としての住吉の歌と、御幣の採物舞によって、海神(わたつかみ)を慰める。

舞のあいだに願い事をすると成就する願神楽とのこと。
わたしも手を合わせてお願いごとをしました。

この神楽を観て手を合わせていると、「ありがたの影向や月住吉の神遊、御影を拝むあらたさよ」という《高砂》の詞章が思い出されて、神楽と能楽のつながりを感じたのでした。
(能楽堂での上演だからよけいにそう感じたのかも。)



高千穂の夜神楽~岩戸三番・御神体につづく



2016年10月27日木曜日

高千穂の夜神楽~講演編

2016年10月25日(火) 13時30分~17時20分 国立能楽堂
講演
公演にあたって       小川直之(國學院大學教授)
生命燃える神楽の魅力 三隅治雄(芸能学会会長)
神楽の音楽について  小島美子(国立歴史民俗博物館名誉教授)


高千穂の夜神楽(三田井地区神楽)
(1)神颪 (2)杉登 (3)住吉
(4)手力雄(5)鈿女 (6)戸取 (7)御神体



先日の日之影神楽は高千穂の隣町の神楽だけれど、宮崎の神楽はほんとうにヴァラエティ豊か。印象がずいぶん違っていた。わたしが感じたおもな違いは;

日之影神楽は、「あばれ神楽」とも呼ばれるようにアクティブで激しい神楽が含まれ、終盤には囃子のテンポが速くなるにつれて、足を小刻みに踏むのが特徴的。

それに対して高千穂神楽は、より神事的でおごそか。能舞台という設定も神聖な印象を強めていた。

また、高千穂神楽では、高千穂神社所蔵の古くて良い面が使われており、なかには600~700年くらい前の古面もあった(天河神社・大弁財天社の能面よりも古い!)。

面の品格に合うように、舞手も腰をしっかり入れて舞うので、舞自体が美しく、より洗練された印象。重要無形民俗文化財としての矜持も感じられた。


【三隅治雄先生の講演】
「かぐら」は神の魂が宿る場所「神座(かみくら)」がなまって「かぐら」と称され、神楽の「神」の字からしめすへんを取ったのが「申楽」だという。

『申楽談儀』にも、「遊楽の道は一切物真似なりと云へども、申楽とは神楽なれば、舞歌二曲をもって本風とすべし」とあり、また、高千穂神楽に式三番とわれる三番の演目があることからも、神楽と申楽(能楽)との強い関係性がうかがえる。
(能の詞章にも「神楽」という言葉がよく出てきますものね。小書にもあるし。)


また、神楽の舞手がもつ採物(扇、太刀、幣など)自体が神の依り代でもある。

生命が枯れ、魂が疲れる11月~2月の時期に、神楽のなかで人が仮面をつけて神となり、神とともに舞い、神とともに酒を飲み、神と人との魂の交流を行うことで、神から新たな生命(いのち)をいただき、新しい年が誕生し、衰えた生命が再生する。

これを神話化して舞歌にしたものが天岩屋戸の神楽である。


――という内容が三隅先生のお話。御歳88歳の先生も神楽を長年見続けたおかげでお元気だそう。

ヨーロッパのミトラ神の祭り(冬至の日に行われた太陽神の祭り)やキリスト降誕際(ミトラ祭りの後身)にあたるのが、高千穂の夜神楽なのかも、と思いながら聞いていた。



【小川直之先生のお話】
高千穂系神楽の特徴は、演目に岩戸五番をもっていること。
そして吉田神道の影響を受け、ミコト付けといって演者に命(みこと)名をつけるのが習わし。
五穀豊穣を願う豊饒神楽があるのも特色。

いっぽう、その南にある椎葉系神楽では、吉田神道の影響はなく、神仏混淆の古形をとどめている。



小島美子先生のお話:神楽の音楽について】
太鼓のスタイルの変遷のお話が面白かった(太鼓好きなので嬉しい!)。

最も素朴な太鼓である「枠なし締太鼓」から、くさびを入れて締める「くさび締太鼓」、さらに現在ひろく使われている「鋲留太鼓長胴型」へと変化した。

従来は横打ちがメインだったが、林英哲が鋲留太鼓長胴型の正面打ち(正対構え打法)を発見し、これが一般に瞬く間に広まったという。

高千穂神楽で使われるのは、胴一木造り・二枚皮の「枠付き締太鼓長胴型」で、こちらは鋲留太鼓と比べて、メンテナンスが大変。

また、能楽や歌舞伎で使用される「枠付締太鼓短胴型」が神楽に取り入れられたのは、近世に島根県の佐太神能で導入されたのが初めてという。
つまり、島根・石見などの中国地方の神楽はさまざまに改変されており、神楽の古形を残しているのは九州地方(宮崎)の神楽のほうであるというのが、小島先生の見解だった。

たしかに、中国地方の大蛇伝説にもとづく神楽は、スモークを焚いたり、レーザー光線を使ったりするなどの派手な演出で、スーパー歌舞伎ならぬスーパー神楽的要素があるのかもしれない。

高千穂神楽の囃子の編成
篠笛、枠付締太鼓横打ち+縁打ち、枠付締太鼓胴打ち(ガタ打ち)、
そして小型のシンバルのような胴鈸子(どびょうし)が太鼓に結びつけられている

高千穂町のマスコットキャラクター「うずめちゃん」


高千穂の夜神楽~式三番・住吉につづく

2016年10月26日水曜日

東京青雲会~舞囃子《松尾》《山姥》・仕舞《杜若》・能《俊成忠度》

2016年10月26日(水)  14時~16時20分  宝生能楽堂

素謡《大江山》シテ金野泰大 ワキ田崎甫 ワキツレ木谷哲也
         地謡 金森良充 朝倉大輔

舞囃子《松尾》辰巳和麿
      地謡 佐野弘宜 金森隆晋 川瀬隆士 金井賢郎
   《山姥》内藤飛能
    地謡 藪克徳 金森良充 木谷哲也 田崎甫
    成田寛人 森貴史 柿原光博 大川典良

仕舞《善知鳥》 當山淳司
  《杜若キリ》川瀬隆士
  《是界》  金井賢郎
    地謡 辰巳大二郎 金森隆晋 金野泰大 上野能寛

能《俊成忠度》シテ武田伊左 俊成 今井基 トモ藤井秋雅
        ワキ森常太郎
        成田寛人 森貴史 柿原光博
     後見 朝倉大輔 佐野弘宜
     地謡 柏山聡子 内田朝陽 広島栄里子
        土屋周子 関直美 葛野りさ



宝生流は20~30代の本物の若手が熱い!
文字どおり、しのぎを削り合い、芸を磨き合う、白熱した青雲会。
今回はいつもにも増して全体的にレベルの高い舞台だった。


素謡《大江山》
素謡の並び方も流儀によって若干違っていて、
横一列に五人並んだ中央に、シテの金野さんではなく、金森良充さんが座るのは地頭だからだと途中から気づく。
宝生流の若手の謡は全体的に良く、とくにワキの田崎さんがバツグンにうまかった。

それにしても《大江山》って、どう考えても酒呑童子が可哀そう。
まつろわぬ民たちも酒呑童子のように、相手を歓待して酒宴を開いた際にだまし討ちにあったのだろう。この曲は、酒呑童子が象徴するまつろわぬ民への鎮魂歌なのかも。



舞囃子《松尾(まつのお)》
酒造神として有名な松尾大社を主題とした宝生流だけの現行曲。
どうして宝生流だけなのかな? たとえば京観世などは演能の要望があると思うのだけど。酒造メーカーが後援者だったりするし。
(要するに《高砂》の類曲というか、《高砂》の松尾大社ヴァージョンですね。)

シテの和麿さんがとにかくうまい!
新酒のようにスッキリした爽快な切れ味。
序破急のリズムとか、間の取り方とか、幼少期からの稽古の積み重ねもあるだろうけど、天性ものもあるのかもしれない。
謡いは満次郎さん譲りの深みのある声量で、謡っている時の表情も満次郎さんに似ていらっしゃっる。人気もうなぎのぼり。まちがいなく将来大物になる方だと思う。
(観世の関根祥丸さんに匹敵するのが宝生の辰巳和麿さん。)


舞囃子《山姥》
丁寧な舞のなかに静かな気迫がみなぎる。瞬きひとつしない高い集中力。
この方の山姥の迫力は外面的なものではなく、観る者に「命懸けの舞」と思わせるほどの凄みがじわじわと滲み出てくるようなそんな迫力だ。
とくに立廻り以降が素晴らしく、今現時点で出せるだけの渾身の力を尽くして舞っていらっしゃるのが伝わってきて、胸を打つものがあった。



仕舞《善知鳥》
うまい人だと思う。
血気盛んな荒武者のようなところが持ち味なのかな。



仕舞《杜若キリ》
川瀬さんは以前から注目していた方。
観ているうちに胸がじーんと熱くなり、身体が震え、涙があふれてきた。

まず舞う前の、立ち上がる瞬間からすでに杜若の精になっている!

すらりと伸びた杜若の花の精がじつに優雅に立ち上がる。
扇を持ち、腕を伸ばし、腕を広げて舞うその姿は、薄く透明な長絹を着けているよう。
透き通った薄紫の長絹の袖を翻すたびに、花の香りが漂い、女とも花ともつかない永遠の女神が幻影のように姿をあらわす。

「蝉の唐衣」で少し上を見上げ、そこから薄紫の杜若の精は白い光に包まれるように影が薄れ、数々の女の面影が花のイメージと重なりながら消えてゆく。

いつまでも観ていたいほど美しい仕舞だった。



仕舞《是界》
物凄く高い、攻めの飛び安座。
全体に力が若干入りすぎていた気がする。
ほんとうの実力は倍くらいある方ではないだろうか。

辰巳大二郎さん地頭の地謡がとても良かった!



能《俊成忠度》
まずは、角帽子を沙門付けにした僧形の俊成(今井基)と従者(藤井秋雅)が登場。
つづいてワキの岡部六弥太があらわれる。
常太郎さんは謡いもそうだけれど、「おまく」の掛け方もお父上そっくり。
秋雅さんがよく通る声で、六弥太とやり取りをする。

シテの武田伊佐さんは幕の出からいかにも貴公子の亡霊らしい優美な佇まい。
白大口にオレンジ色の厚板、肩脱した灰緑色の長絹が歌人としての忠度の繊細さを引き立てている。
面は今若だろうか。
中将よりも若い気がした。
シテは面使いも巧みで、身体と面が一体化している。

あの細い身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、装束をつけた身体でしなやかに舞い、たくみに袖を巻き上げ、翻す。

カケリも決まって、修羅道での修羅王VS帝釈天・梵天の激しいバトルが始まるシテ謡「あれご覧ぜよ修羅王の……」ところも女流らしい声の質をのぞけば迫力のある謡。


うまい女流の方はこういう貴公子物がいちばん合う気がする。






2016年10月24日月曜日

橘香会~狂言《川上》・能《藤戸》

2016年10月22日(土) 12時30分~17時10分  国立能楽堂
橘香会~万三郎の《朝長》後場からのつづき

狂言《川上》シテ座頭 野村万作アド妻 高野和憲

能《藤戸》漁師の母/漁師 古室知也
 ワキ佐々木盛綱 福王和幸 ワキツレ村瀬慧 矢野昌平
 アイ盛綱ノ下人 石田幸雄
 成田寛人 鳥山直也 柿原光博
 後見 梅若万佐晴 中村裕
 地謡 青木一郎 加藤眞悟 八田達弥 長谷川晴彦
    遠田修 梅若雅一 梅若久紀 根岸晃一





狂言《川上》は初めて観る。
月見座頭と同じくらいいろいろ考えさせられる。

盲目のまま十年間暮らしていた座頭が、ある日とつぜん霊験あらたかな地蔵から霊夢を賜り、目が見えるようになる。
暗い人生が一気に明るくなった瞬間。
しかし霊夢の内容は、悪縁の妻と別れるなら目を開けてやろう、というものだった。


最後は座頭が妻に押し切られる形で離縁を思いとどまり、再び盲目となって、妻に手を引かれる形で、道祖神のように二人仲良く手をつないで退場となるのだが、

どうなのだろう?
公演チラシの解説には、「夫婦の情愛が描かれる」と書かれているが、そういうハッピーエンドの物語とは大分違っていて、かなりブラックな歪んだ幸せのかたち、人間心理の不可思議さ(あるいは人間心理の本質)が描かれていると思う。

夫婦の幸せのかたちって千差万別で、他人からはうかがい知れない。
悪縁の妻に押し切られ、妻の尻に敷かれることが、つまり、身体の一部となった杖を使って今までどおりの日常を営むことが、座頭にとっては目が見えることよりも「幸せ」なのかもしれない。
(多くの庶民にとっては大きな幸せよりも、日常生活を淡々と営むことのほうが安心できる。日常に安住するほうが心地良い。それが「幸せ」と認識されたりもする。)

自分だったらどうするだろうとか、夫だったらどうするだろうとか、そんなことまで考えさせられる摩訶不思議な魅力が狂言《川上》にはあって、それを野村万作の名演で拝見できたのは幸せだった。


能《藤戸》
梅若研能会の方々はまだお名前と顔が一致しない方が多く、シテの古室知也師も初めて拝見する。
ベテランのシテ方さんだろうか。
ハコビも所作もきれいな方だ。
しかし、《藤戸》の難しさ、とくに前場と後場それぞれでワキに詰め寄る見せ場の難しさをあらためて実感した。

前シテの面は「曲見」。
《朝長》の曲見とは違って、こちらは若曲見かと思うほど、増をそのまま老けさせたような美形の女面。

後シテは「痩男」で、この面をかけ、水衣と腰蓑をつけた出立であらわれた漁師の霊が、前シテよりも20キロ以上減量したように痩せ細って見えたのが凄い。

地謡が好かった。

そして何よりも、前シテの老母をやさしく労わり、慰めながら家まで送る石田幸雄師の思いやりのこもったアイ(盛綱ノ下人)が人情味にあふれ、素晴らしかった。





2016年10月23日日曜日

橘香会~万三郎の《朝長》後場

2016年10月22日(土) 12時30分~17時10分  国立能楽堂
橘香会~《朝長》前場からのつづき

能《朝長》青墓ノ長者/大夫ノ進朝長 梅若万三郎
 ツレ侍女 長谷川晴彦 トモ従者 青木健一
 ワキ旅僧 殿田謙吉 ワキツレ則久英志 御厨誠吾
 アイ青墓長者ノ下人 野村萬斎
 栗林祐輔 幸正昭 亀井広忠 小寺真佐人
 後見 加藤眞悟 梅若雅一
 地謡 伊藤嘉章 西村高夫 八田達弥 青木一郎
    泉雅一郎 遠田修 永島充 梅若泰志

狂言《川上》シテ座頭 野村万作 アド妻 高野和憲

能《藤戸》漁師の母/漁師 古室知也
 ワキ佐々木盛綱 福王和幸 ワキツレ村瀬慧 矢野昌平
 アイ盛綱ノ下人 石田幸雄
 成田寛人 鳥山直也 柿原光博
 後見 梅若万佐晴 中村裕
 地謡 青木一郎 加藤眞悟 八田達弥 長谷川晴彦
    遠田修 梅若雅一 梅若久紀 根岸晃一



【後場】
〈後シテ登場〉
出端の囃子であらわれた後シテの出立は、左折梨打烏帽子、白地紋大口、紅白段替厚板、縹色の単衣法被(片脱ギ)には露草があしらわれている。

面は十六。
純真さ、清らかさを形にすればこんなふうになるのかと思えるような類まれな美少年の面。
あまりにも清らかすぎて、神々しさすら感じさせる。


万三郎の崇高な貴公子の姿を観た時、青墓の長者がなぜ生前にほんの少し接しただけの朝長をあれほどまでに憐れみ、弔い続けたのかがわかった気がした。


人間の卑劣さ、俗悪さ、荒々しさを嫌というほど観てきた長者(遊君)の目には、乱世では生きる術のない弱く儚い美少年・朝長が純粋さの象徴のように思われ、その死後に彼女の中でさらに美化され、ある意味、俗塵にまみれない存在として信仰の対象のようになっていたのかもしれない。

そんなふうに、出の姿だけで観る者の想像力をかき立て、物語に説得力を与えたのが万三郎の後シテだった。


〈クセ〉
前場の鬘桶に掛かっての語リと同様、床几に掛かる姿の美しさ。

同じ静止の姿であっても、前シテの年を重ねた青墓の長者から漂うムスクのような濃艶な香りとは異なり、後シテの朝長の亡霊から立ち昇るのは微かなシトラスの香り。
装束を通して、少年のみずみずしさ、やわらかさのようなものが伝わってくる。


舞の究極の形であるこの静止の姿。
万三郎の居グセ(床几クセ)は屈折率の高い宝石のように、無心にそこに存在し、観る者の視線を反射してさまざまな光を放っていた。



〈キリ〉
「膝の口をのぶかに射させて馬の太腹に射つけらるれば」で、扇を持った左手に袖を巻き上げ、扇を膝に軽く突き立て、
「馬はしきりに跳ねあがれば」で、馬が跳ねるように足拍子二つ、
「鐙をこして下り立たんとすれども」で、ほとんど立ちあがるように膝を浮かせて足を出し、
「一足もひかれざりしを」で、いったん床几にかかったのち、
「乗替にかきのせられて」で、床几から立ち上がり、
「(雑兵の手にかからんよりはと)思い定めて腹一文字にかき切って」で、脇正にて安座ではなく、下居して扇で切腹する型をする。

ここまで、朝長の最期を見事に表現しつつも、けっして芝居にはならない、純度の高い抽象的な型の連続による描写に終始していた。

じめじめしたところや悲壮感のまったくない、ひたすら儚く、美しい朝長。

こういうところがわたしが感じる万三郎の最大の魅力であり、
内実には途方もない精神力・集中力・身体能力・芸の技と力が働いているはずなのに、外から見えるのは、ゆとりと余裕、超然とした芸の「花」だけ。


俗塵にまみれない朝長のイメージは、そのまま万三郎の舞姿そのものだった。


おそらく、こういうタイプのシテ方があらわれることはもうないのかもしれない。

この先、万三郎の名を嗣ぐにふさわしい人があらわれることもないのかもしれない。

何もかもが儚く、美しい《朝長》だった。









橘香会~狂言《川上》・能《藤戸》につづく


2016年10月22日土曜日

橘香会~《朝長》前場

2016年10月22日(土) 12時30分~17時10分  国立能楽堂


解説 馬場あき子

能《朝長》青墓ノ長者/大夫ノ進朝長 梅若万三郎
 ツレ侍女 長谷川晴彦 トモ従者 青木健一
  ワキ旅僧 殿田謙吉 ワキツレ則久英志 御厨誠吾
  アイ青墓長者ノ下人 野村萬斎
 栗林祐輔 幸正昭 亀井広忠 小寺真佐人
 後見 加藤眞悟 梅若雅一
 地謡 伊藤嘉章 西村高夫 八田達弥 青木一郎
    泉雅一郎 遠田修 永島充 梅若泰志

狂言《川上》シテ座頭 野村万作  アド妻 高野和憲

能《藤戸》漁師の母/漁師 古室知也
 ワキ佐々木盛綱 福王和幸 ワキツレ村瀬慧 矢野昌平
  アイ盛綱ノ下人 石田幸雄
 成田寛人 鳥山直也 柿原光博
 後見 梅若万佐晴 中村裕
 地謡 青木一郎 加藤眞悟 八田達弥 長谷川晴彦
    遠田修 梅若雅一 梅若久紀 根岸晃一



元雅作と推定される能二番に狂言《川上》という、攻めの橘香会。
ある意味、似ているところがあるからこそ違いが際立つ二つの曲を続けて観るのは面白い趣向だった。

馬場あき子さんの解説は《朝長》についてのみ。
前場の「女語り」の特異性と重要性が強調された。
また、能に登場する中世の遊君(青墓長者、静香御前、千手、熊野)と武人との精神的類似性(平穏な明日が約束されておらず、そのためブレない潔さがあったこと)を述べていらっしゃったのも興味深い。


さて、肝心の能《朝長》。
【前場】
まず、次第の囃子が好い!
笛の栗林さんはここ1~2年で芸の格がグングン上がり、今やあちこちで引っ張りだこの売れっ子に(音色も豊かだしヒシギや早笛も吹き損じがないので、聴く側もゆとりをもって舞台に集中できる)。
幸正昭さんはいつものように手堅い職人芸。好不調の波がない安定感。
広忠さんは、先日の紀彰の会ではまだ打音がきつく、音の濁りを感じたが、この日はやわらかく、繊細な音色。掛け声はもちろん申し分ない。


〈面・装束〉
人目を忍ぶように、密やかな足取りで、前シテが幕から登場する。
出立は菊花などの花・木をあしらった落ち着いたゴールドの精緻な唐織。
水桶も木の葉も持たず、右手に数珠だけを握りしめている。

面は、奥ゆかしげな気品のある曲見で、慈愛のようなむくもりを感じさせる。

前シテは侍女と従者を引き連れて本舞台にあがり、朝長の墓の前で亡き少年への思いを語るのだが、ここは本来ならば「御面影の見えもせで」で、墓の前で下居して合掌するところを、この日はほとんど立ったままで下居をなるべく省く演出。


〈静止の美〉
とはいえ、万三郎の立ち姿の美しいこと!
たしか『梅若実聞書』に、能のなかでただ立っている時は必ずどちらかの片足にのっている、という言葉があったが、片足に重心が載っているのがよくわかる立ち姿。
身体がやや片側に傾いているものの、「静止の美」、「不動の美」を象徴するかのような、呼吸さえ止まっているのではないかと思わせるほどの、不動の美しさがそこにはあった。



〈初同〉
初同になり、青墓の物寂しい風景を地謡が切々と謡い上げていく。
「荻の焼原の跡までも」で、シテは何かに思いを馳せるように脇正を向き、
「げに北邙の夕煙の」で、しみじみと辺りを見回し、
「雲となり消えし空は色も形もなき跡ぞ」で、ちぎれた雲を目で追うように空を見上げる。

朝長の亡骸を焼いた煙が立ち昇り、一片の雲となって、やがて空の彼方に消えてゆく。

現実の景色に重ねられたシテの心象風景が、観客の心にもノスタルジックな映像のように映しだされ、長者のせつない思いが観る者にひしひしと伝わってくる。



〈シオリの美しさ〉
「なき跡ぞあはれなりける」でシオルときの、万三郎の手の美しさが忘れられない。

指先をそろえるのではなく、親指以外の四本の指先を微妙にずらして折り曲げることで、女らしい嫋やかさ、繊細さ、情の深さが表現される。

唐織からわずかに出た手の甲と指先。
どうみても女のものとしか思えない白く美しい、まだ色香の残るその手が、長者という地位にある遊君として背負ってきたいくつもの重く暗い過去さえも物語るかのよう。



〈語リ〉
前場の極めつけは、なんといっても語リ。
鬘桶にかかった万三郎の語リは微動だにせず美しい静止の状態にあるけれど、じっと硬直して固まっているのではない。
静止の内奥に、やわらかい生動、有機的な流動性が宿っていて、それが得も言われぬ香りとなって滲み出てくる。

世阿弥はせぬひまの要諦として、「心を糸にして、人に知られずして、万能をつなぐべし」といっているけれど、無心になるほどの高度な集中の持続によって実現されたせぬひまは、こんなふうに香木のような薫りを放つのだろうか。



橘香会~《朝長》後場につづく







2016年10月19日水曜日

第十一回 青翔会~能《八島》

2016年10月18日(火) 13時~16時10分  国立能楽堂

舞囃子《羽衣》シテ岩松由実 
 鹿取希世 飯冨孔明 大倉慶乃助 姥浦理沙
 地謡 深津洋子 柏崎真由子 村岡聖美
    林美佐 安達裕香

舞囃子《小督》シテ佐藤陽
 小野寺竜一 清水和音 柿原孝則
 地謡 佐々木多門 塩津圭介 佐藤寛泰 谷友矩

舞囃子《春日龍神》シテ関根祥丸
 高村裕 岡本はる奈 柿原孝則 澤田晃良
 地謡 山階彌右衛門 観世芳伸 角幸二郎
    木月宣行 杉浦悠一朗

狂言《柿山伏》シテ山伏 上杉啓太 
   アド畑主 野村虎之介 後見 能村晶人
   高村裕 岡本はる奈 柿原孝則 澤田晃良

能《八島》シテ老翁/義経 辰巳大二郎 
  ツレ男 金井賢郎 ワキ矢野昌平 
  ワキツレ村瀬提 村瀬慧 アイ河野佑紀
  熊本俊太郎 曽和伊喜夫 亀井洋佑
  後見 和久荘太郎 今井泰行
  地謡 辰巳満次郎 高橋亘 東川尚史 亀井雄二
     内藤飛能 當山淳司 金森隆晋 金野泰大





今回からプログラムの内容が変更され、以前は出演者全員のプロフィールが掲載されていたのが研究生・研修生のみとなり、舞囃子・能のシテのプロフィールさえ載っていないのでちょっと不便。



舞囃子《羽衣》
そんなわけで初めて拝見する笛方・鹿取希世さんのことが分からなくて、耳で聴いて推測。
一噌流でないのは確実なので、あの強い吹き込みはたぶん藤田流かな?、と思ってあとで調べたらやっぱり藤田流でした。

太鼓の姥浦さんがうまくなられていた。
ひと粒ひと粒が丁寧で、掛け声も好い。
(プロの中堅でも撥皮を度々はずす方がいらっしゃるから、ひと粒ひと粒を丁寧に意識を集中させて打つという姿勢はほんとうに大事だと思う。)

飯冨さんももちろんうまく、囃子全体を慶乃助さんがリードされていて、このあたりはさすが。

シテは足をかける時のねじり方がスムーズで切れ目がなくきれい。
女流だけで構成される地謡。
節も金春流独特の節なので、いちばん聴きなれている観世の《羽衣》とは別の曲のよう。



舞囃子《小督》
シテの佐藤陽さんは初めて拝見するけれど、緩急のつけ方がうまくて、舞囃子《羽衣》ではお囃子のほうにばかり目がいっていた観客たちも、シテの舞に集中していた様子。
わたしも惹き込まれました。

シテはおそらく内心では緊張されているのだろうけれど、それが顔に出ないタイプ。
(演者の緊張が伝わると見所も息苦しくなるので、それだけで得だと思う。)
ベビーフェイスでお公家さんのようにポワンとした雰囲気を持ちつつ、無駄な力みがなく舞っていらっしゃるように見えた。




舞囃子《春日龍神》
まったく目が離せない!
やっぱり凄い、祥丸さん、ダントツにうまい。
というか、「うまい」という言葉では括れない、弛みというものがまったくない次元の異なる隙のなさ。

とくに足拍子の時など、体型がこれだけ細長いと普通は遠心力に負けて、上半身が若干不安定になったり、腰の重心が定まらなかったりするものだけれど、素晴らしい腰の強さで軸のブレが一切なく、最上級の鋼のように強靭にしてしなやか。

そして、舞にどことなく陰翳があるのも祥丸さんならではの大きな魅力。


飛び返りは飛んでいる時の高さや滞空時間ももちろん大切だけれど、いちばん大事なのは着地した時に姿勢をビシッと決めたまま、少しもブレずに不動でいること。
着地時の静止状態の美しさが命。
九郎右衛門さんや紀彰さんの飛び返りがそう。
(若手では林宗一郎さんや武田祥照さん。)
この日の祥丸さんのも、そういう飛び返りだった。




狂言《柿山伏》
シテの上杉さんが憎めないキャラでかわいかった。



能《八島》
シテ・ツレともに宝生流若手のうまい方々なので楽しみにしていました。
(辰巳大二郎さん、独立されたのでしょうか。「サラメシ」には出ていなかったような。)

前場は、シテとツレの掛け合いなど同時に橋掛りや舞台に立つことが多いため、どうしても比較になってしまうのだけれど、

ツレの金井賢郎さんは体軸・下半身ともに充実していて、姿勢が美しく、とりわけ静止した時の佇まいがずっしりと安定している。


それにたいして、細身の大二郎さんは丹田の重心のあたりにやや薄さを感じてしまう。
とはいえ、この日の大二郎さんの良さはなんといっても謡だった。

外見を良い意味で裏切るような、面をかけてもよく通る、独特の渋みのある謡が、朝倉尉の面と溶け合いながら、春の海辺の情景を美しく描いてゆく。

後場で床几に掛かって仕方話をするところも、この謡が効いていて、激しい合戦の様子を頭に描きやすかった。

曽和伊喜夫さんの打音がきれい。
亀井洋佑さんがキャリアの差を見せつける貫禄と風格。


そしてなによりもこの舞台でよかったのが、河野さんの間狂言。
衒いのないまっすぐで誠実な語りで、聞いている側もすんなりと語りの世界に入っていける。
よけいな「自我」(変にもったいぶったところ)のないところが、今のこの方の間狂言の持ち味だと思った。




2016年10月18日火曜日

野村萬斎「狂言とシェイクスピアの出会い」

2016年10月18日(火) 18時30分~20時  早稲田大学大隈講堂


面白かった!

萬斎さんは、数多くのファンが長年熱中し続けるのもわかるほど、星が瞬くようにキラキラしていてゴージャスで、才能にあふれ、サービス精神旺盛な人だった。


最初はシン・ゴジラの裏話から。
舞台でモーションキャッチャーの様子を再現して見せたり、ロンドンで買ったポール・スミスのゴジラ柄(ほんとうは恐竜柄)のネクタイと、同じくゴジラ模様の靴下を御自慢げに見せたりと茶目っ気たっぷり。

モカブラウンのスーツ姿で颯爽と登場した萬斎さんは、普段よりも姿勢の美しさと引き締まった身体が際立つ。 50歳とは到底思えない。


詳しい内容は、萬斎ファンその他の方々がSNSでいろいろ書いていらっしゃるだろうからここには書かないけれど、個人的には河合祥一郎訳シェイクスピアが好きなので、その翻訳第一弾『ハムレット』の誕生秘話を萬斎さんからうかがえたことが興味深かった。
(当時は河合さんとよく徹夜して、ああでもないこうでもないと、頭をひねりながら訳文を試行錯誤したという。)


原文のリズムを生かしつつ日本語らしい七五調を取り入れた、あの耳に心地よい見事な訳文は、音節を大事にしたいという萬斎さんの強い要望とお二人の情熱があったからこそなのですね。





2016年10月17日月曜日

日之影神楽~神楽公演・第Ⅱ部

 
2016年10月16日(日) 13時~17時45分 國學院大學百周年記念講堂
日之影神楽~神楽公演・第Ⅰ部からのつづき

(9)「手力男」~(13)「柴引き」までが、岩戸五番になるので、
第Ⅱ部では、祭壇の前に岩戸の作り物が置かれます

【神楽公演~第Ⅰ部】
 (1)舞入れ (2)森の正教 (3)彦舞 (4)杉登り
 (5)座張り (6)天神様の舞 (7)神颪

【神楽公演~第Ⅱ部】
 (8)荒神 (9)手力男 (10)伊勢神楽 (11)鈿女命
 (12)柴引き (13)戸取り (14)舞開き





(8)荒神
(8)荒神
国津神(荒神)である猿田彦が天地の始まりからイザナギ・イザナミの国産みまでを説く舞。
最初に、ヒョットコのような滑稽味のある面をつけた舞出しの舞がある。




(9)手力男

 (9)手力男
手力男が天岩屋の様子をうかがい、岩戸を押し開く方法を思案している舞。

最初はワルツのようなゆったりして優雅な舞なのが、途中から激しい舞に変化。
(日之影神楽は途中から激しく早いリズムになり、足を小刻みに動かすパターンが多い。)



 


(10)伊勢神楽

(10)伊勢神楽
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が岩戸開きの準備をする舞。
岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神を誘い出す様子を表す。
解説によると、天児屋根は藤原氏の遠祖であることから、「中臣の祓いの舞」とも呼ばれ、かつては神官が舞う神楽だったという。






(11)鈿女命

(11)鈿女命
神楽の起源の舞。
激しさと、ほんわり・おっとり感が入り混じった不思議な感覚。
おかめっぽい面が可愛らしい。




(12)柴引き
(12)柴引き
太玉命が天香具山から榊を根っこごと引き抜いて岩戸の前に植え供えることで、天照大神のお出ましに備える様子をあらわした舞だそうです。

岩戸のうしろで数人の人が榊の根元をもっていて、最後は太玉命と綱引き状態に。



 


(13)戸取り
(13)戸取り
手力男命が岩戸を取り払う舞。
取り払われた岩戸の一つ目は日向国・阿波岐ケ原に、二つ目は信濃戸隠まで飛んでいったそうです。





(14)舞開き
(14)舞開き
天照大神が天岩屋からお出ましになる舞。
右手に「月」、左手に「日」をもち、交互に照らす。

アマテラスを舞っていたのは、天使のように愛らしい小学1年の女の子。

実際に日之影町を訪れて、夜神楽を観ていると、ちょうど夜が白々と明けて朝日が昇るころに、アマテラスが岩屋から出る「舞開き」となり、きっとその感激・感動はひとしおだろう。

いつか訪れてみたい。





2016年10月16日日曜日

日之影神楽~神楽公演・第Ⅰ部

2016年10月16日(日) 13時~17時45分 國學院大學百周年記念講堂
日之影神楽~山間に伝わる神楽の真髄からのつづき

舞台となる御神屋(みこや)はこんな感じ。
御神屋とは、四方をしめ縄で囲まれた神楽の奉納場所のこと。
神楽のあいだは女人禁制。
奥に祭壇、中央に天蓋が吊り下げられ、四方は四本の榊の木で囲まれている。

【神楽公演~第Ⅰ部】
 (1)舞入れ (2)森の正教 (3)彦舞 (4)杉登り
 (5)座張り (6)天神様の舞 (7)神颪

【神楽公演~第Ⅱ部】
 (8)荒神 (9)手力男 (10)伊勢神楽 (11)鈿女命
 (12)柴引き (13)戸取り (14)舞開き



さて、いよいよ公演です。
演者の顔も映っているため申し訳ない気もするのですが、観光PRも兼ねているそうなので、ザッとアップしていきます。



(1)舞入れ
(1)舞入れ 
 道案内の神・猿田彦命を先頭に、奉仕者(神楽の舞い手)が八百万の神となって、岩井川神社から神楽宿まで、氏神をお連れする御神楽行列。
 画像は、神様を依り憑かせた白布を広げているところ。




(2)森の正教
 (2)森の正教
 神楽の冒頭に太鼓を打ち、言霊信仰と陰陽五行の思想にもとづいて御神屋を清める。
 
 囃子は、太鼓(横打ち・縁打ち)、太鼓(胴打ち)、笛、鐘の四人構成。
 (みなさんマルチプレーヤーで、演目ごとに人が入れ替わる。)




(3)彦舞
 (3)彦舞 
  まずは先導者・猿田彦の舞。おちゃめで、(猿田彦なので)ちょっとセクシーな舞。




(4)杉登り
(4)杉登り
 「式三番の神楽」のひとつで、新しくつくった神殿に杉(神籬ひもろぎの役目をする)を伝って神が降臨する神楽。
袖の露をとるような所作や鈴の使用、袖を巻き上げるところなどが能の式三番を思わせる。



(5)座張り
 (5)座張り
 太玉命が榊を求めて、天香具山に入るまでの場面をあらわす舞。
 「あばれ神楽」とも呼ばれる番付で、客席にダイヴしたりと激しくアクティブ。
 観客大喜び、大爆笑、面白かった!



(6)天神様の舞
 (6)天神様の舞
 集落の鎮守・岩井川神社の御祭神である菅原道真(天神さま)による舞。
 岩戸神話+地域神話が登場するのが、この地の神楽の特徴。



(7)神颪
 (7)神颪
 祓い清めた御神屋に神々が座ついたことを喜ぶ舞。
 マティスの『ダンス』のような楽しげな輪舞。

 吊り下げられた天蓋が上下して、そこから紙吹雪が舞い、喜びが表現されていた。
(たぶん紙吹雪(紙颪)の「紙(カミ)」と、神降ろし(神颪)の「神(カミ)」を掛けて、紙吹雪を依り代にして神が降りて来たのをあらわしたのかも。)



神楽公演~第Ⅱ部につづく



日之影神楽~山間に伝わる神楽の真髄

2016年10月16日(日) 13時~17時45分 國學院大學百周年記念講堂


【講演】
  ヒムカ神話とアマテラス 大館真晴(宮崎県立看護大教授)
 神楽と岩戸神話 小川直之(國學院大教授)

【神楽公演~第Ⅰ部】
 (1)舞入れ (2)森の正教 (3)彦舞 (4)杉登り
 (5)座張り (6)天神様の舞 (7)神颪

【神楽公演~第Ⅱ部】
 (8)荒神 (9)手力男 (10)伊勢神楽 (11)鈿女命
 (12)柴引き (13)戸取り (14)舞開き



宮崎県山間部・日之影町に伝わる大人神楽(おおひとかぐら)の東京公演。

わたしや夫の地元である関西および出雲地方の民俗芸能には比較的馴染みがあったのですが九州はノーマークだったのでとても良い機会、体調絶不調だったけど楽しかった!


それにしても宮崎県って神楽の宝庫なんですね。
有名な高千穂神楽をはじめ、諸塚神楽、椎葉神楽、高鍋神楽等々、200以上の神楽があるとのこと。


この日之影神楽は、集落の鎮守・岩井川神社の大祭(小正月の1月14~15日)に夜を徹して行われる夜神楽で、激しい太鼓と荒々しい所作を特徴とすることから「あばれ神楽」とも呼ばれているそうです。

通常は28番行われるところを、この日はそれぞれ短縮版の神楽14番が上演され、神楽の内容は、天岩戸伝説が主ですが、そこへ岩戸川神社の祭神・菅原道真が出現する天神の舞なども挿入されるユニークな神楽となっていました。



公演は撮影可能だったので、次の記事から簡単に紹介していきます。


日之影神楽公演・第Ⅰ部につづく




2016年10月14日金曜日

第三回紀彰の会 花の饗宴《半蔀・立花供養》後場

2016年10月12日(水) 18時15分~21時15分  梅若能楽学院会館
第三回 紀彰の会《半蔀・立花供養》前場からのつづき

日本刺繍講師の鍔本寛子氏が制作した前シテ装束
(紀彰の会チラシより)

能《半蔀・立花供養》シテ梅若紀彰
   ワキ森常好 アイ山本東次郎
   杉信太朗 大倉源次郎 亀井広忠
   後見 梅若長左衛門 山中迓晶 松山隆之
   地謡 梅若玄祥 松山隆雄 山崎正道 小田切康陽
      鷹尾章弘 鷹尾維教 角当直隆 川口晃平



【後場】
〈後シテ登場〉
後シテは前場と同じ面に、夕顔の蔓に見立てたような金色の蔦模様をあしらった輝くばかりの白地長絹。
露は色大口と同じ黄蘗色。

全体的に花の精というよりも、白い花の女神のような気品のある神々しさを感じさせる。
ボッティチェリの描くフローラのような憂いを含んだ面影。
そして微かに狂気を秘めた、とらえどころのない艶やかさ。



シテは一の松に置かれた半蔀の作り物のなかでしばらく床几にかかったのち、「さらばと思ひ夕顔の」で立ち上がり、「草の半蔀押し上げて」で、右手にもった閉じた扇で半蔀を押し上げる所作をして、作り物から出て舞台へ。



〈クセ〉
源氏との思い出を語るクセのはじめ、シテはしばらく大小前に立ち続ける。

いつもながら紀彰師の静止の姿はまことに美しく、静止の状態も、能の舞の流れの一部であることを強く感じさせ、強力な磁場のように観る者を引き寄せる。
(静止の姿の美しさ・誘引力は、とりわけ芸の力に比例すると思う。)



「今も尊き御供養に」で、ワキに向かって下居合掌、
「(その時の思い出でられて)そぞろに濡るる袂かな」で、二度シオリ、
「(惟光を招き寄せ)あの花折れと宣へば」で、右手の扇で幕のほうを指す。

「源氏つくづくと御覧じて」から舞に入ってゆく。



〈序ノ舞〉
シテの舞う舞いそのものが、清らかな白い花の美の世界。

花の命の短さ、儚さ。
儚さゆえの一瞬のきらめき、輝き。

それらすべてが凝縮された優艶な序ノ舞。


舞の途中、三段目あたりでシテとワキが舞台の対角線上に向き合い、スーッと美しく二人揃って下居し、おごそかに合掌。


この能全体が、この日の舞台そのものが、立花供養という厳粛な儀式なのかもしれない。

夕顔の君は白い花の女神の仮の姿であって、
僧の供養に感謝して女神自身がこの世に降臨したようにわたしには思われた。



舞い終えたシテは半蔀のなかへ、そして花の世界へと還っていった。








2016年10月13日木曜日

第三回 紀彰の会~《半蔀・立花供養》前場

2016年10月12日(水) 18時15分~21時15分  梅若能楽学院会館
第三回 紀彰の会「花の饗宴」~仕舞・連吟からのつづき

東田久美子氏による、凛とした精神性を感じさせる見事な立花
終演後、舞台に置いたままにしてくださったので撮影会状態に

能《半蔀・立花供養》シテ梅若紀彰
   ワキ森常好 アイ山本東次郎
   杉信太朗 大倉源次郎 亀井広忠
   後見 梅若長左衛門 山中迓晶 松山隆之
   地謡 梅若玄祥 松山隆雄 山崎正道 小田切康陽
      鷹尾章弘 鷹尾維教 角当直隆 川口晃平


《半蔀》は二か月前に同じ能楽堂で観世宗家のものを拝見したばかりだけれど、「立花供養」の小書つきということもあり、今まで観たどの《半蔀》とも違う、梅若紀彰独自の唯一無二の《半蔀》だった。

【前場】
〈立花供養の準備〉
誰もいない能舞台に、四方正面の立花が二本の竹棒に挟まれて運び込まれ、豪華な着物に身を包んだ東田久美子氏が切戸口から入場し、立花の前でお辞儀をして、花々の調整をする。

その後、タイミングよくお調べが始まり、上演開始となる。

囃子方は去年の広忠の会《定家》と同じメンバー。
杉信太朗さんは東西をまたにかけて御活躍されているだけあって、同じメンバーで聴いてみると上達の度合いがよくわかる。


「立花供養」の小書のためか、囃子事も異なり、最初は小鼓だけが床几に掛かり笛とともに演奏し、大鼓はしばらく床に座ったまま。
音取置鼓ではないけれど、宗教儀式としての立花供養の厳かさを感じさせる。


ワキの僧侶(森常好)は、アイの寺男(山本東次郎)に立花供養の用意を命じる。
この間、ワキは後見座にクツロギ、寺男が準備が終えると正中下居、「敬って申す」と立花供養を始め、ここから囃子が入る。


東次郎さんの水衣の紫の染めが素敵だった。
上質の染料が使われているのだろう。ああいう好い色は今ではなかなか出せない。



〈前シテの登場〉
驚いたのは、前後シテともに逆髪が使われていたこと!(*追記)
その意図は最後まで分からなかったけれど、とにかく斬新な《半蔀》だ。

この女面は黒目の部分が小さく、どこか精神の安定を欠くような危うさを秘めている。
どちらかというと、五条で源氏と出会ったころの可憐な夕顔というよりも、廃屋で物の怪に取り憑かれ半ば狂気に喘ぐ夕顔の印象だろうか。


正面を向くと物凄い美人で、斜めや横から見ると危険な女性。
美が刻々とうつろってゆく。
美そのものの本質をあらわすような逆髪の面。



装束は、日本刺繍講師の鍔本寛子氏が一年以上かけて制作したもの。
重厚な唐織とは違い、余白を生かした意匠で、黄昏を思わせる薄い渋金地に白い夕顔の花が大胆にあしらわれている。
着付けたとき唐織よりも、紀彰師の身体の線に優美に沿っていた。



〈中入→間狂言〉
通常の《半蔀》の間狂言の内容のほかにも、ワキがアイに問われて、立花供養の謂れ(「千草の花を集めて仏に供せしより始まれり」)を語る場面もある。

また、アイに五条のあたりに行くよう勧められて、ワキが「おことも後より来り候へ」と言い、アイが「心得申し候」と言うので、てっきりアイも後場に登場する珍しい演出なのかと思いきや、アイは通常通り間狂言が終わると切戸口から退場した。




紀彰の会~《半蔀・立花供養》後場につづく


*追記)
このように書いたものの使用面については自信がなくなってきました。
どなたかご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただければ幸いです。





 

第三回 紀彰の会「花の饗宴」~仕舞・連吟

2016年10月12日(水) 18時15分~21時15分  梅若能楽学院会館

ロビーにもお花がいっぱい!

仕舞《小袖曽我》シテ梅若紀彰 ツレ松山隆之
  《舎利》  シテ山中迓晶 ツレ梅若紀彰
   地謡 山崎正道 小田切康陽 角当直隆 川口晃平

連吟《安宅》角当行雄 松山隆雄 鷹尾章弘 鷹尾維教

仕舞《二人静》シテ小田切康陽 ツレ梅若紀彰
  《龍虎》 シテ角当直隆 ツレ梅若紀彰
  《鐘之段》梅若長左衛門

連吟《琴之段》梅若玄祥 山崎正道 川口晃平

能《半蔀・立花供養》シテ梅若紀彰
   ワキ森常好 アイ山本東次郎
   杉信太朗 大倉源次郎 亀井広忠
   後見 梅若長左衛門 山中迓晶 松山隆之
   地謡  梅若玄祥 松山隆雄 山崎正道 小田切康陽
      鷹尾章弘 鷹尾維教 角当直隆 川口晃平


 
2年前の第一回紀彰の会《砧》がとても良くて、あの時のような紀彰師がこだわり抜いた美の世界をずうっと待ち焦がれていた。
梅若の能楽堂は自然光が特徴だけど、太陽光が入ると日常性が介在してしまうため、わたしは心落ち着けて非日常性を味わうことのできる夜能のほうが断然好き。
そんなわけで待ちに待ったこの日がとうとうやってきた。



まずは、仕舞・連吟から。
それにしても、シテで能を舞う前に、相舞とはいえ仕舞4番を舞われるなんて凄い!
わたしのように紀彰師の舞姿に惚れ込んで来ている方が多いだろうから、観客のニーズを心得ていらっしゃる。おそらくご自分でも舞うのがお好きなのだろう。



【仕舞】
相舞4番とも紀彰師の舞に釘づけになって、一瞬たりとも目を離すのが惜しいくらい。
非の打ちどころがどこにも見当たらない。

ふつうはあまりにも完璧すぎると、逆に心に引っかかるものがなくて物足りなく思えたりするけれど、紀彰師の場合は一瞬ごとに惹きつけられる。一瞬ごとを心に刻みつけておきたい。


相舞としてバランスが良かったのは、山中迓晶さんとの《舎利》。
迓晶さんは型が端正で体軸も腰もしっかりしていて、紀彰師とともに韋駄天と足疾鬼の迫真のバトルを展開。最後の飛び返りもピタッと美しく決まって、見応えがあった。




【連吟】
《琴之段》
玄祥師と、玄祥師の謡をよく受け継ぐ山崎さん・川口さんによる連吟。

「夜寒を告ぐる秋風」の低音から、「七尺の屏風は」や「荊軻は聞き知らで」の高音までいったいどれだけの高低差があるかと思うほど、わたしのような素人が聴いても難しそうな曲。
その難所難所で見所を魅了し、最後の、「ただ緩々と侵されて眠れるがごとくなり」では子守唄のようにそっと、やさしく、暗殺者が眠り込むのも無理はないと思わせる見事さ。
梅若らしい謡の妙を堪能した。



第三回 紀彰の会~《半蔀・立花供養》前場につづく





2016年10月9日日曜日

国立能楽堂十月普及公演~狂言《菊の花》・能《熊坂》

2016年10月8日(土)13時~15時25分 雨のち曇り 国立能楽堂

「白地菊花模様袷法被」より
解説 盗賊外伝「熊坂」と街道の伝承 田中貴子
狂言《菊の花》野村万作 高野和憲

能《熊坂》前シテ僧/後シテ熊坂長範 長島茂
   ワキ旅僧 村山弘 アイ所の者 内藤連
      一噌幸弘 曽和正博 高野彰 小寺真佐人
   後見 友枝昭世 中村邦生
   地謡 出雲康雅 粟谷能夫 粟谷明生 狩野了一
      金子敬一郎 友枝雄人 内田成信 大島輝久



長島茂さんは仕舞と舞囃子では拝見したことがあったのですが、能のシテでは未見。中堅のうまいシテ方さんだと思っていたので、期待に胸を膨らませて鑑賞しました。
(能楽鑑賞教室以外では国立初シテでしょうか?)


解説・盗賊外伝】
30分の解説をもっと短くして、そのぶん喜多流の若手数人の仕舞を入れたほうがこちらも楽しめるし、演者や流儀のアピールにもなるのではと個人的には思うのですが、普及公演だから解説重視なのかなー。

解説の内容はWikiの「熊坂長範」の内容とほとんど同じで、それ以外では、漱石の『吾輩は猫である』と鏡花の『いろ扱い』と『星女郎』に熊坂長範が登場するというお話が興味深かった。田中貴子先生は親しみやすい口調で話されるので、能が初めての方でもとっつきやすく人気なのかも。



漱石・鏡花以外にも、志賀直哉、宮本百合子、司馬遼太郎、薄田泣菫など数々の文豪・作家が作品のなかで熊坂長範に言及していて、「判官びいき」の対象となった義経に討たれた長範は、敗者に寄せる日本人独特の感性が生んだヒーローなのでしょうね。




【狂言《菊の花》】
先月の銕仙会でも万作さんの《菊の花》(アドは石田さん)があったのですが、休憩時間が短すぎて間に合わず、ロビーのモニターでチラリと観ただけだったから、念願かなってようやく拝見。

下女に追いかけられて、両手をねじあげられる表現力がさすが(痛そう!)。
腕力のある大柄な女性がほんとうに万作さんの後ろに立って、その腕を思いっきりねじあげているように見えてくる!

「緒太の金剛」は一応、草履ということになっているけれど、某放送禁止用語の隠語だという説もあり、そう解釈するほうが、主人が最後に言う「やくたいなし、しさりおれ」という言葉にもなんとなく納得がいく。


【能《熊坂》】
〈前場〉
次第の囃子で登場するワキの僧侶は先月の光宝会で拝見した村山弘さん。
東京では珍しい高安流ワキ方なので、次第の節も馴染みのある下宝とはずいぶん違う。

村山師は姿勢の美しい方で、修行を積んだ僧侶らしい落ち着きと風格があり、シテに向き合うときの視線も細やか。
もしかするとワキ方では宝生欣哉さんの次くらいに村山さんのワキが好きかもしれない。

「のうのう」の呼び掛けで揚幕の奥から登場した前シテ・謎の僧侶の装束は全体的に青系にまとめられ、グレー系にまとめたワキ僧の装束と差別化されている。
(ワキの僧侶が手に持つ数珠の群青房が灰色系の装束のアクセントに。)
また、ワキの角帽子がシテのそれよりも耳をすっぽりと覆っているのもちょっとした違い。

前シテ僧侶はいかにも武士あがりの新米僧といった風情で、僧侶然としたワキとは好対照。

シテの長島茂さんは、この日はとても緊張されているように見えた。



〈間狂言〉
アイの内藤連さん、うまくなりはったなー。
わかりやすく、聞き取りやすい間狂言でよかった。


〈後場〉
ワキの待謡、すごく良くて聞き惚れていたのに、途中から入った囃子が大音量過ぎてワキの謡が聞こえなくなり、残念。

後シテの長霊癋見はその名の通り、長範の亡霊用の専用面だけあって、普通の癋見よりも青白く、滑稽味が抜け、目がランランとして、どことなく恐ろしげ。

シテの謡が素晴らしかった。

とくに最後の、「しだいしだいに重手は負ひぬ」のところ。
滅びゆく者の悲哀と、悟りの萌芽を予感させる諦念のようなものを漂わせていた。





2016年10月8日土曜日

宇和島伊達家の能楽

2016年10月5日~12月7日(後期11月8日~)  国立能楽堂資料展示室





伊達宇和島家は、伊達正宗の庶長子・秀宗が宇和郡十万石に入部したことにより始まったとされる。
(秀宗は伊達正宗の長男だったが、正宗の正妻・愛姫が産んだ嫡子・忠宗が仙台藩伊達家の家督を相続したため、大阪冬の陣参陣の功として徳川家康から与えられた伊予宇和島十万石の初代藩主となったという。)


本特別展は前期・後期に分かれ、幸流宗家六世正氏による極銘が請にある精緻な「天衣葩蒔絵小鼓胴」などの鼓胴、能面の優品、珍しい能面のミニチュア「指面」や能絵鑑など、見応えのある名宝が数多く展示されている。



指面とは、親指サイズの能面の玩具のこと。
面の両側に綿紐がついていて、その紐で指に結びつけ、指人形のように「能ごっこ」をして遊んだという。
ただし、今回展示されている指面は、その裏側に指擦れがないことから専ら鑑賞用として楽しまれたのではないかと推測されている。
制作したのも面打ちではなく、人形をつくる職人だったのではないかとのこと。

ひとつひとつ、非常に精巧に作られていて、木彫と塗りの高度な技術がうかがえる。



展示のなかで特に印象に残ったのが、「老女」の面だった。
風雪に洗われ、透き通るように白い年老いた女の能面。

昭和4年5月5日に、梅若会別会で六世銕之丞(華雪)がこの老女面を借用して《姨捨》を舞った時の、袖を被いたモノクロ写真も能面の下に展示されている。

また、附には「当時、梅若万三郎、梅若六郎等一門ノモノ拝見ノ上、昔日美人タリシ面影歴然タルモノアリテ誠ニ類少ナキ見事ナル出来ナリトシ讃美セリ」とある。


観梅問題の真っ只中、万六黄金時代の梅若流別会。
波乱に満ちた輝かしい能楽史の生き証人のような老女の面。

彼女はほとんど閉じたようなその細い目で、いったい何を、どんな舞台を、どんな人間模様を見てきたのだろう。






2016年10月6日木曜日

万三郎の《野宮》後場~国立能楽堂十月定例公演

2016年10月5日(水)13時~15時45分  国立能楽堂
梅若万三郎の《野宮》前場からのつづき

能《野宮》シテ六条御息所 梅若万三郎
   ワキ殿田謙吉 
   アイ茂山七五三
   赤井啓三 久田舜一郎 亀井忠雄
   後見 中村裕 加藤眞悟
   地謡 西村高夫 伊藤嘉章 八田達弥 馬野正基
      遠田修 長谷川晴彦 梅若泰志 青木健一



後場は小林秀雄風に、「千駄ヶ谷の能楽堂で、万三郎の《野宮》を見た……美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」と綴りたくなるほど閑麗な名舞台だった。


【後場】
ヒシギが鳴り、大小鼓が冷え寂びた一声の音色を響かせてゆく。
重い過去が絡みついた牛車に乗る風情で、後シテの御息所が登場する。

長絹は茶色に見えるほど退色した紫長絹。
薄柿色の大口も裾が少し擦り切れている。
薫香焚きしめた上質の古い装束が、色香の褪せつつある御息所の姿をあらわしている。


しかし、加茂祭の車争いの再現から御息所に変化が訪れる。
前場では深井のように老けて見えた増の面が、にわかに生気を帯び、冷たい美しさをたたえながら、みるみる若返ってゆく。


「(パッと寄りて)人々、長柄に取りつきつつ」で、シテは脇正で伸ばした右腕に左袖を掛け、
「人だまひの奥に押しやられて」で、身をよじるように後ずさり、
悄然とした面持ちで舞台を二巡りする。


ここの地謡も最高に素晴らしく、御息所の受けた屈辱が身に迫るよう。

いや、屈辱を受けたというよりも、彼女は深く傷ついたのだ。
どうしようもないほど深く傷ついて、底知れぬ孤独の中で途方に暮れていた。
気位は高いけれど、心が脆く、傷つきやすい繊細な女性。
万三郎の後シテはそんな慎み深く、嫋やかな素顔の御息所だった。




〈序ノ舞〉
万三郎の序ノ舞には、無駄なもの余分なものがことごとく削ぎ落とされ、能の精髄・芸の神髄だけが舞っているような不思議な軽やかさ――物理的ではなく、精神的な軽やかさ――があった。

物理的法則や肉体的限界を超越した、何物にもとらわれない自由な軽やかさ。

それは、東宮妃時代の御息所の心の軽やかさ、華やぎにも通じていた。



〈破ノ舞〉
「野宮の夜すがら、なつかしや」で、源氏の面影を重ねるように鳥居に駆け寄り、後ずさりした御息所は、ここで初めて涙を見せ、抑えに抑えていた思いがほとばしる。

熱く、静かな二度のシオリ。

そこから九月七日の最後の夜を追懐する破ノ舞へ。

この破ノ舞は、熱情に駆られたわが身を俯瞰するような、どこか醒めたまなざしを感じさせる。
もしかすると御息所は僧侶の法力を借りずともすでに自己昇華していて、彼女にとって妄執を晴らすなどということは、もはや大した問題ではないのかもしれないとも思わせた。

万三郎の破ノ舞は、ドロドロした情念や妄念とは無縁であり、
ただ甘美な痛みを噛みしめて、陶然と舞う美しい女がそこにいた。



〈終曲〉
「伊勢の内外の鳥居に出で入る」で、左足を鳥居から出して引く型はなく、
代わりにシテは鳥居に向かってためらいがちにジグザグに前進し、鳥居に触れることなく後退して通り過ぎる。

そのまま橋掛りに行き、一の松で「また車にうち乗りて」と左足拍子で車に乗り込み、しばらくこちらをじいっと見つめた。

凄絶なまでに美しい高貴な女性。
わたしはこの瞬間、万三郎演じる御息所にほとんど恋をしていた。


そして二の松で、「火宅の門をや出でぬらん」と鳥居を振り返り、憂いをふくんだまなざしで再び見所を見込む。

ゾクッとするほどの美しさ。

これほどまでに美しいひと、愛しいひとが行ってしまう、わたしを置き去りにして。


シテの姿が幕の奥へと消える時、
御息所に去られたあとの光源氏の気持ちがわかる気がした。










2016年10月5日水曜日

梅若万三郎の《野宮》前場~国立能楽堂十月定例公演

2016年10月5日(水)13時~15時45分 最高気温25℃ 国立能楽堂
茂山千五郎家の《合柿》からのつづき

能《野宮》シテ六条御息所 梅若万三郎
   ワキ殿田謙吉 
   アイ茂山七五三
   赤井啓三 久田舜一郎 亀井忠雄
   後見 中村裕 加藤眞悟
   地謡 西村高夫 伊藤嘉章 八田達弥 馬野正基
      遠田修 長谷川晴彦 梅若泰志 青木健一




いま、このときの三世梅若万三郎にしか表現しえない《野宮》。
老後の初心という言葉どおり、磨き抜かれた洗練の極致といえる芸の力と、身体の衰えとのせめぎ合いのなかで探り当てたギリギリの境界線上に、これまで見たこともない透徹した美しい花が咲いていた。


【前場】
〈ワキの位取り〉
いつもにも増して、殿田さんの位取りが素晴らしい。
ワキの出で――おそらく幕に掛かった瞬間から――御息所の思いを受け止めるだけの深い器と精神性を備えた旅僧になっていて、顔つきや佇まいに寂び寂びとした品格がある。

ワキが鳥居に向かって、「われこの森に来て見れば、黒木の鳥居、小柴垣、昔にかはらぬ有様なり」と謡うと、下村観山の描く『木の間の秋』のような、うら寂しい秋の森の情景が鳥居の周囲に立ち現れてくる。


〈シテの工夫〉
そこへ次第の囃子で、前シテが登場する。

唐織は金茶とプラチナシルバーの秋花模様の段替。
面は、前場・後場とも同じ河内作の増なのだが、前シテの出と後シテの終曲部とでは、わたしにはまったく異なる表情に見えたばかりか、二十歳くらい年の違う女に見えた。

実際、前シテの登場時には、一年前に橘香会で《定家》を観た時から経過した時間の長さと、シテの身体の衰えを感じた。
それが一時的な不調のせいか、年齢によるものかはわからないが、いずれにしろ自然の摂理は避けられない。これまでのような年齢による衰えを感じさせない完璧に美しい舞姿こそ、芸の力が起こした奇跡だったのだ。


しかしこの日の舞台にはそうした自然の摂理を受け入れたうえでの工夫が随所に凝らされ、型を削ぎ落とし、所作を抑制することで、かえって御息所の心が美しいタペストリーのように重層的に織り込まれ、観る者に多様な解釈を与えていた。



(以下、わたしが「工夫」と感じたのはもともとあった型なのかもしれません。)
この日の舞台では、下居が徹底的に排されていた。
「野宮の跡なつかしき」で下居して榊を置くところはカットされ、榊は「あらさみし宮所」で後見に手渡された。
その他、居グセなど正中下居の箇所はすべて床几に掛かる箇所となり、下居してワキに合掌するところもなくなっていた。


また、クセやロンギでシテのシオリが一切なく、御息所がシオルのは、破ノ舞に入る前の一度だけ。
「風茫々たる野宮の夜すがら、なつかしや」で、鳥居に駆け寄りしばし懐旧の念に浸ったのち、後ずさりして、そこで堰を切ったように思いがとめどなくあふれ出て、たまらなくなって二度シオル。

それまでシオリが一度もなかったからこそ、御息所の孤高、気高さ、そして破ノ舞を舞う契機となる内に秘めた激情の奔出が生きてくる。


シテの動きが極端に少ない前場。
床几に掛かって冷たく一点を見つめるシテの姿は、光源氏に対して十分に心を開けずに煩悶し、激しい思いを抑え続けた御息所そのものだった。


赤井啓三師の送り笛と間狂言の途中で入るアシライ笛が、秋の野を吹き抜ける木枯らしのような寂寥感を漂わせ、御息所の言葉にできない胸の内をそっと語っていた。



万三郎の《野宮》後場につづく








国立能楽堂十月定例公演・茂山千五郎家の狂言《合柿》

2016年10月5日(水)  13時~15時45分 国立能楽堂

狂言《合柿》シテ柿売り 茂山千五郎
      アド都の者 茂山千作
    都の者 茂山茂 茂山宗彦 丸石やすし 松本薫

能《野宮》シテ六条御息所 梅若万三郎
   ワキ殿田謙吉 アイ茂山七五三
   赤井啓三 久田舜一郎 亀井忠雄
      後見 中村裕 加藤眞悟
   地謡 西村高夫 伊藤嘉章 八田達弥 馬野正基
      遠田修 長谷川晴彦 梅若泰志 青木健一




「定例公演で、い、いいんですか?」と思うほど特別感のある豪華な公演。

開場前、図書室に立ち寄ってから1階にあがってくると、ちょうど万三郎師が楽屋入りするところだった。舞台の外でも往年の銀幕スターのような、端正なオーラと品格のある方だ。

その後、この日から始まった「宇和島伊達家の能楽」の特別展示をのぞいてから、能楽堂へ。
この特別展示については、別記事で紹介します。


まずは先月襲名したばかりの茂山千作・千五郎さんによる《合柿》から。
(おそらく実質的には東京での襲名披露になるのかな?)


千五郎家の狂言は観能最初期に2回ほど観ただけで、これまではあまり意識してこなかったけど、やはりお豆腐狂言というだけあって、関西なまりがやわらかく、軽妙で、少し甘みのある木綿豆腐のよう。

同じ大蔵流でも武骨で重々しい(それはそれで良い持ち味の)山本東次郎家とは、別流派かと思うくらい発声も節回しも違うように感じる。
こんなことを言ったら怒られるかもしれないけれど、吉本新喜劇の元祖、原点のようにも思えてくる。


新・茂山千五郎さんは声量がとても豊か。
最後の謡のところなどは、身体全体が楽器になっているのがよくわかる。

名前が人を育てるという言葉があるけれど、これからが楽しみな役者さんだ。

渋柿を食べて口笛が吹けなくなるのは、渋(タンニン)で口の中がしびれるからかな?
わたしも食べたことがあるけれど、なんともいえない感覚。
それを干し柿にして、羊羹のような甘さにするのは昔の人の知恵ですね。
柿売りも美味しい干し柿にしてから売れば、普通に高値で売れただろうに。


茂山家や山本家は、家族・親族が一致団結して舞台を創り上げていて、そういう情熱やぬくもりが観る側にも伝わってくる。
(すみません、大蔵家や善竹家についてはほとんど知りません。)

逆に、不和がある家だとそれが舞台にもあらわれてマイナスの気がたちこめ、その家・その人の舞台や芸がいまひとつ好きになれなかったりする。
確固たる技術が基礎としてあるのは当然だけど、最後の最後に人の心を動かすのは演者の人間性ではないかしら。



梅若万三郎の《野宮》前場につづく







2016年10月2日日曜日

東洋大学能楽鑑賞教室~《膏薬練》・《通小町》

2016年10月1日(土)15時~17時10分 最高気温27℃ 東洋大学・井上円了ホール

公演パンフレット
解説 小野小町関係の能 清水寛二

能装束着付実演 浅見慈一 鵜澤光

狂言《膏薬練》三宅右矩  高津佑介
       後見 吉川秀樹

能《通小町》シテ観世銕之丞 ツレ観世淳夫
         ワキ 則久英志
         藤田貴寛 田邊恭資 佃良太郎
         後見 清水寛二
         地謡 馬野正基 浅見慈一 長山桂三 安藤貴康
 



初めて行った東洋大学の能楽鑑賞教室は評判通りとてもよかった。
学生向けの鑑賞教室を一般にも開放しているなんて、東洋大学太っ腹!

【公演パンフレット
公演パンフレットが充実していて、なによりも17ページに及ぶ銕之丞師へのインタビュー記事が素晴らしい!
わたしが普段思っていることも的確な言葉で応えてくださっていて、とくに「わかりやすさを求める」社会風潮の弊害については、うん、うん、と読みながら何度も頷いてしまった。


インタビュアーの原田香織氏もけっこう鋭く突っ込んだことをおっしゃっていて、たとえば観世宗家を中心とした謡についても、「発音がすごくて、信じられないくらい音を立てるって言うんでしょうか。」と、たぶん多くの人が感じているけれど口に出して言えないことを活字にされているところが凄い!
(このコメントについては、当然ながら銕之丞師はうまくかわして(そらして?)いらっしゃいました。)



【解説:小野小町関係の能】
清水寛二さんのお話が面白い!
高校時代に学年一の美女にラブレターを送った実体験に始まり、美しいことは罪だ、という話になって、小町の話になっていく。
こういう話のもっていき方がうまいですね。

ちょうどこの日の前日に、Eテレで放送されたダリ能の一部を観ていたからか、清水さんのお顔がだんだんサルバドール・ダリの能面に見えてくる。
コンピューター制御による最新の金属加工技術でダリの顔を模したということだったけど、清水さんにも似ていた気がする。

ダリ能はよかった、エレベーターを橋掛りの代わりに使ったりと、現代的な建築空間がうまく生かされていて。
国立新美術館のロビーとコンクリート打ちっぱなしの青山の能楽堂とがどことなく雰囲気も似ているからか、ミニマルな現代空間のアレンジセンスはさすが(どなたが演出されたのだろう?)。
一般公開の機会があればいいのに。


話が脱線しましたが、解説の内容は小野小町関係の能(通、鸚鵡、卒都婆、草紙洗、関寺)のあらすじの紹介でした。



【装束着付け】
この日は、法被+白大口の装束着付。
武将の着付けは初めてなので興味深く拝見。

法被の肩脱で、抜いた部分を折りたたんで背中に挟み込むのは、矢立(箙)に見立てているんですね。ごく基礎的な知識かもしれないけれど、わたしは知らなかった!
それから法被の袖が普通の袖二枚分の裄丈だというのも知らなかった!!

最後は浅見慈一さんの指導で、モデルの学生さんが太刀を抜く所作を実践。
太刀は左腰に佩いているので、刀を抜く方向に右足先を向けて、腰を入れて、スッと抜くそうです。
やってみたい!



【狂言《膏薬練》】
三宅右矩さんの狂言は一年ぶりくらい。
もともと花がある方だけれど、さらに良くなられていた。
観に行く公演をアイ狂言で選ぶことはないので、この方の間狂言にあまりあたったことがない。



能《通小町》】
《通小町》を拝見するのは二度目。
一度目も銕仙会で、この日の地謡に入っている馬野正基(シテ)さんと長山桂三(ツレ)さんの時だった。

淳夫さんのツレ小町はきれい。
進化されたんだなーと思う。
幕離れもよかったし、ハコビや所作も(ハコビはこの方もともと上手かった)丁寧で品がある。
下居姿も楚々として可憐。
以前、妖しい万媚をつけた時は面だけが浮いて見えたのですが、この日の冷たい若女の面はそんなふうには感じさせず、能面が淳夫さんに味方して力を与えているように感じた。
あとは、謡いを克服できれば……。


銕之丞師はこういう役が合う。
無地熨斗目を被いたまま橋掛りで、「いや叶ふまじ戒授け給はば、恨み申すべし」と謡うところの恨みと悲哀と苦悩が入り混じった、背中がソクッとするような響き。

そして、「月は待つらん、月をば待つらん、我をば待たじ、虚言(そらごと)や」と魂を掻きむしるような謡のあと、「我がためならば」と、絶望の底に沈殿するように安座する、痩男のうつろな目。

ああ、この人はわかっていたのだ。
銕之丞演じる深草少将は、驕慢な女の出任せだと最初から心の奥底では感じていたのだ。


それでも、一縷の望みにすがって通い続けずにはいられなかった。

人間のどうしようもなく虚しい性(さが)のようなものが銕之丞師の深草少将から滲み出ていた。
その愚かな性はわたしのなかにもあって、だからこそ銕之丞師演じる深草少将の嘆きが心に沁みてくる。



地謡にも切々とした風情があり、好い舞台だった。