2017年1月5日木曜日

国立能楽堂定例公演 《老松・紅梅天女イロエノ働キ》

2017年1月4日(水)  13時~15時20分   国立能楽堂
《老松》「紅梅天女」の小書にぴったりの角松

能《老松・紅梅天女イロエノ働キ》
 シテ老人/老松の精 金春安明
 前ツレ男 金春憲和 後ツレ紅梅殿 本田光洋
 ワキ梅津某 高井松男 ワキツレ則久英志 梅村昌巧
  アイ門前の者 善竹大二郎
 藤田次郎 住駒匡彦 柿原弘和 桜井均
  後見 桜間金記 横山紳一
 地謡 高橋汎 高橋忍 辻井八郎 山井綱雄
    中村昌弘 本田芳樹 井上貴覚 本田布由樹

狂言《大黒連歌》シテ大黒天 大藏吉次郎
    アド参詣人 善竹富太郎 大蔵教義
    地謡 大蔵彌太郎 禅竹十郎 宮本昇 大蔵基誠



国立能楽堂の初公演はお正月らしい雰囲気がいいですね。
今年は来場者に こちら↓ の卓上カレンダーがプレゼントされました。
国立能楽堂のお年賀・卓上カレンダー











「紅梅殿」の小書については、小書なしの《老松》よりも、「紅梅殿」の演出のほうが本来の形に近いと以前から言われていた。

山中玲子氏は「〈老松〉の小書『紅梅殿』の諸相と意義という論考のなかで、その説をさらに推し進め、「若い天女の華やかな舞と老シテのハタラキを組み合わせた『紅梅殿』の演出は、単に《老松》の古い形を示しているというだけでなく、世阿弥時代以前の古い脇能の姿をも映し出しているのではないだろうか」という興味深い仮説を唱えている。

その小書を古風な金春流で観ると、世阿弥以前の脇能の古態らしさがより強く感じられた。

(金春流には「紅梅殿」の小書が二種類あり、ひとつはシテとツレの相舞の演出「紅梅天女相舞」で、もうひとつは今回上演された「紅梅天女イロエノ働キ」。同じ「紅梅殿」でも前者のほうがさらに古く、後者は他流の「紅梅殿」の小書と同類のものらしい。)

さて、以下は、実際の公演の簡単な感想。


【前場】
真ノ次第〉
例のごとく、幕が上がって、ワキが登場、幕前で両袖を広げて上下に振り、爪先立ちに伸び上がって、脇正を向き右腕を突き出し……という脇能独特の一連の型があるのですが、
ワキは、足でも傷めていらっしゃるのだろうか。


囃子はよかったです。お囃子で救われた。
藤田次郎さんは、いまの現役一噌流のなかではいちばん好いと思う。
(一噌庸二さんも良い笛だけど、御高齢なので好不調の波がある。)
藤田次郎さんは安定しているうえに、年々磨きがかかり、
この日のイロエなどは本当に素晴らしかった。


住駒匡彦さんはこの二日前にも聴いたばかりだけれど、
以前から良かった打音に加えて、
掛け声になんともいえない味わいと艶が出てきた。
良い小鼓方さんになりそうな予感。

柿原弘和さんは打音に関してはとてもきれいで好きなのですが、
掛け声に個性がありすぎて、もったいない気がする。
若い頃の公演記録では、お父上そっくりの掛け声なのに。



〈真ノ一声〉
ツレの男を先立てて、前シテ登場。

シテは茶水衣に白大口。
面は古元休(出目満永)作の小尉だそうです。


シテは予想通り、かなり癖のある独特のハコビと謡。
ツレの御子息でさえ、謡に合わせ辛そう。
(ツレは単独で謡う時には声量があるのに、二人で謡う時はシテの声しか聞こえない。たぶん謡がずれて聞こえないように、ツレは声を落としているのだと思う。)


芸に強いアクのある金春宗家ですが、下居の美しさはじつに見事。
スーッと静止した姿に品格が漂い、芸の力の強さを感じさせる。


〈クセ→中入〉
聞かせどころのクセなのに、地謡がどんより。

さらに、中入で、ツレがシテにどんどん接近。
幕前ではツレがシテの真後ろに来ていた。
これまで観たどの舞台でも、ツレがシテのハコビのテンポに合わせていたから、こういうのは初めてだ。
橋掛りの上でシテとツレが込み合って、渋滞している。




後場】
出端の囃子で、まずは後ツレ・紅梅殿の登場。

紅地小鼓文様舞衣に白大口。
面は、友閑作の古風な顔立ちの増。
頭には、紅梅を挿した天冠。
瓔珞がちょっと揺れすぎかな。

その後、後シテが登場。
白地金文様の狩衣に、いかにも老松らしい灰緑の大口。
初冠には松葉。日陰の糸はなし。

面は、伝・石王作の石王尉。
非常に格調高い、神さびた尉面。
これをつけると、前場では気になっていたシテの独特のハコビも、
人間離れした神々しいハコビに見えてくる。



シテは一の松から、常座にいるツレに
「いかに紅梅殿、今夜の客人をば、何とか慰め給ふべき」と呼び掛ける。

こうして観ると、後ツレの紅梅殿を出したほうが謡との整合性がとれるというのがよく分かる。

ここから後シテ・紅梅殿の真ノ序ノ舞なり、
シテは常座で床几に掛かってそれを厳かに眺めている。


このときのシテの、微動だにせずに端座する姿には、
どことなく松の幹の鱗のような乾いた感触があり、
御神体の松そのもののような気がした。

おそらくこのシテは芸だけでなく、人格も高い人なのかもしれない。
(人格者だと思う場面を以前に拝見したことがあるから。)



〈金春流の序ノ舞の「序」〉
ここで少し驚いたのが、
金春流の序ノ舞の「序」では、足拍子はあるけれど
上掛りなどにあるような、爪先を上げ下げする足づかいがないということ。
(もしかすると爪先をわずかに上下させていたのかもしれないが、少なくともわたしの席からは見えなかった)。

いずれにしろ序を踏む型も位置も、流儀によってずいぶん違いがあって面白い。


国立能楽堂定例公演・狂言《大黒連歌》につづく




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