2017年3月31日金曜日

桐英会

2017年3月26日(日) 10時~17時35分  国立能楽堂

(拝見したもののみ記載)
舞囃子《鶴亀》 中森貫太
    槻宅聡 鵜澤洋太郎 柿原光博 社中の方

舞囃子《海士》 佐久間二郎
    槻宅聡 鵜澤洋太郎 原岡一之 社中の方

舞囃子《須磨源氏・五段》 清水義也
    寺井宏明 鵜澤洋太郎 原岡一之 社中の方

舞囃子《邯鄲・盤渉》 北浪貴裕
    一噌隆之 観世新九郎 原岡一之 社中の方

舞囃子《三輪》 坂真太郎
    寺井宏明 幸正昭 原岡一之 社中の方

独調《胡蝶》 小島英明×社中の方
   《唐船》 下平克宏×社中の方

一調《船弁慶》 観世喜正×社中の方
 
一調一管《花重蘭曲》 一噌隆之×社中の方

舞囃子《三笑》 遠藤喜久 小島英明 桑田貴志
     八反田智子 大倉源次郎 國川純 社中の方

舞囃子《杜若・恋之舞》 観世喜正
     松田弘之 幸正昭 國川純 社中の方

番囃子《海士・赤頭三段之舞》
     寺井宏明 幸信吾 柿原弘和 社中の方
 
舞囃子《融・酌之舞》 下平克宏
     松田弘之 大倉源次郎 安福光雄 社中の方

舞囃子《葛城・大和舞》 浅見真州
     八反田智子 幸信吾 國川純 社中の方

舞囃子《山姥・白頭・立廻》 藤波重彦
     八反田智子 幸信吾 安福光雄 社中の方

番外一調《巻絹》 浅見真州×梶谷義男
      《遊行柳》 馬野正基×三島元太郎

舞囃子《乱・双之舞》 観世喜正 馬野正基
     松田弘之 大倉源次郎 安福光雄 社中の方



金春流太鼓方・梶谷英樹さんの社中会。
囃子方社中会は豪華だし、いつも新しい発見があって楽しい!

社中の方々も皆さんとてもお上手で、何よりも堂々と打っていらっしゃる。
特に素晴らしかったのは、一調《船弁慶》と一調一管《花重蘭曲》を打たれたお二人。
《船弁慶》の方は凝った特殊な手を打っていらっしゃって、撥さばきも鮮やか。
曲の盛り上げ方を心得ている。

《花重蘭曲》を打たれた方は音色が美しく、難しい手組を自在に操っていらっしゃった。
鞨鼓や神楽、早笛、獅子などをメドレー形式にアレンジした花重蘭曲。
一噌隆之さんがいつもに増してかっこよく見えた。


舞囃子のシテで印象に残ったのは清水義也さん、北浪貴裕さん、坂真太郎さん。

清水義也さんは以前拝見した時よりも舞が洗練されていた。
ご自身の会を精力的に開くなど相当努力されていて、それが芸にも反映されている。
(テレビで見たけれど、ご自宅の舞台も見事なつくり。)

北浪貴裕さんはかねてから舞囃子などで良いなーと思いつつ舞台を拝見したことがないので、機会があれば行ってみたい。

坂真太郎さんの舞はおそらく初めて拝見するけれど、この方の舞台も観てみたいと思った。


九皐会の方々の舞は総じてレベルが高く、皆さん40代・50代の花盛り。
見ごろですね。
拝見したいと思いつつ、九皐会の例会はめぼしい席がお社中&関係者で埋め尽くされすぐに完売になるので、部外者には縁遠い世界なのでした。


《海士・赤頭三段之舞》は二段目でクツロギが入って大小ナガシとなり、その後総ナガシ。
これを能でやるときは、面を橋姫にして、脇能扱いになるという。


観世喜正さんと浅見真州さんはやはり表現力が抜きんでていた。
舞囃子でありながら面・装束を付けたような描写力で、凝縮された曲の世界を描き出す。

昨夏に喜正さんの能《杜若・恋之舞》を観たばかりだったので、その油絵のデッサンを観たような気分。
杜若の精をあらわす運歩や身体の使い方・手の表情など、こんなふうになっていたんだーと、名画の制作過程を味わう感覚で拝見した。
(蝉を捕まえて扇の上に置く型がとりわけ美しい。)


浅見真州さんの大和舞も素敵で、これくらいの年代・芸力の方は、能よりも舞囃子や仕舞で拝見するほうが好きかもしれない。
芦雪の墨絵のように曲の真髄を自由闊達に描いていくような面白さがあった。


馬野正基さんの番外一調《遊行柳》もよかった。
この方の謡は玄祥師に似ている気がするけれど、玄祥師の謡が観世寿夫の謡に似ているから、巡り巡って、銕仙会の正統な謡を継承されているのかも。

番外一調《巻絹》の梶谷義男師の太鼓も、その御姿とともに端正だった。


舞囃子《乱・双之舞》は、喜正さんと馬野さんの芸系の違いがあらわれていて興味深い。
安坐の仕方ひとつとっても馬野さんは独特の膝の折り方で沈み込むように坐り込む。
(これは《乱》専用の安坐のバリエーション?)
先の《三笑》がどちらかというと揃うことに意識がフォーカスされていたのに対し、こういう相舞は違いを味わい、そこから生まれる調和を楽しむものだと実感。
それにしても、ひとくちに「双之舞」といっても演者によっていろいろあるんですね。



追記:この日の最大の収穫は、確かな筋から元伯さんの消息をうかがえたこと。
とにかく今はご快癒を祈りつつ待つしかない。




2017年3月24日金曜日

《三輪・神遊》後場~友枝昭世の會特別公演

2017年3月22日(水) 19時~20時45分 国立能楽堂
《三輪・神遊》前場からのつづき
能《三輪・神遊》シテ友枝昭世
  ワキ森常好 アイ山本東次郎
  松田弘之 曽和正博 柿原崇志 観世元伯→小寺真佐人
  後見 塩津哲生 中村邦生 狩野了一
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
     内田成信 金子敬一郎 友枝雄人 大島輝久



【中入→間狂言】
間狂言では、「大穴持(オオナムチ)=三輪大明神」であることが語られる。

(ここからは私見ですが)
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』によると、出雲族には古くから竜蛇信仰があり、蛇のトグロの形に似た山が、「神の籠る山(神名備山)」として崇拝されたという。
特に丸い山は女神の山と考えられ、出雲族が移り住んだ大和でも、太陽が昇る方角にある三輪山の神は、「太陽の女神」とされた。

もちろん、能《三輪》の直接の典拠は『俊頼髄脳』と考えられているが、三輪の神が女姿で顕現し、太陽神アマテラスと一体となる本曲には、そうした古事記以前の古代信仰の記憶が埋め込まれているのかもしれない。



【後場】
作り物から響くシテの声、そしてワキとの掛合いが神話の世界への扉を開いていく。

「御影あらたに見え給ふ」で引廻しが外されると、白狩衣に照明が反射して、シテに後光が射したように見え、あたりがパアーッと輝き出す。


(大鼓は中入ではまだ交換されず、おそらく神楽・破ノ舞に備えてシテサシでようやく交換。

中入では、なかば居眠り状態だった柿原崇志さんも、後場が始まるとキリッと覚醒し、ほとんど本能的に体が動いて鼓を打ち、掛け声を発しているように見えた。
芸が血肉そのものとなって、心身と一体化している――。)



〈クセ〉
クセの前半はシテが輝きを増し、壮麗な印象を与える。
友枝昭世さんはこういう神的な存在が最もよく似合う。

小面の面にもふつうの若い娘のような人間味はなく、かといって硬質な近寄りがたさもない、女神の媚態ともいうべき「聖なる色香」を感じさせる不思議な表情を浮かべている。


活玉依毘売に身をやつしたシテは
「さすが別れの悲しさに」で、立ち上がって作り物から出、
「苧環に針をつけ」と差し出した右袖を糸巻に見立て、意を決したように右袖を見る。


上ゲ端のあと「こはそもあさましや」で、左袖巻き上げ、
「契りし人の姿か」と、作り物につけられた杉の神木を、愛おしげに、懐かしげに見つめる。


永遠の絆を誓い合った相手は、もう手の届かない存在。
その衝撃、そのせつなさ。
突然の別れは、いつの世にも、誰の身にも起こりうる。


神木を見つめるシテの姿からは抑えがたい恋慕の情があふれてきて、ことさら忘れ難いシーンだった。



〈神楽〉
「八百万の神遊」で扇を閉じ、「これぞ神楽の始めなる」と扇を幣のように左右左と打ち振り、太鼓が入って下居・達拝。

神楽の序は六つ。
カカリで常座前方に立って再拝。


ユリを多用した松田さんの笛が時空を歪ませて、観る者をタイムマシンに乗せたまま悠久の時をさかのぼってゆく。


二段目でシテは脇座前で右手の扇を逆手に持ち替え、右袖を巻き上げ、笛がさらにユリを効かせ(十ノユリ)、グル―ヴ感全開のユリ無き七ツユリが続き、昂揚感を高めつつテンポが速まり、三段から神楽留へ。



〈神々の依り代となるシテ〉
「天の岩戸を引き立てて」で、シテはアマテラスとなって羽根扇で岩戸を引く所作、
「常世の闇と早なりぬ」で、扇で顔を覆いながら舞台を廻る。


さらに「八百万の神たち岩戸の前にてこれを歎き」で
今度は八百万の神々となって作り物(岩戸)に向かって下居。

ここから再びアマテラスとなって、
「天照大神その時に岩戸を少し開き給へば」と、作り物に入って合わせた両手を開き、
すぐさま作り物から出て、今度は岩戸の隙間からアマテラスが観た神遊の様子を再現する。

(おそらく破ノ舞の前半はアメノウズメで、後半からアマテラスとなる。)




〈破ノ舞〉
本舞台で右手の扇を逆手に持ち、右袖を巻き上げ、脇正側を小さく廻って袖を返し、サーッと橋掛りへ進み、幕際へ。

二の松で左袖を被き、右手の扇で顔を隠す(→翁の型)。


この時の、シテの、扇越しの流し目。
ほとんど悩殺されそうになるくらい、ゾクッとする。

友枝昭世の舞台で背筋を走るような官能を感じたのは初めてだった。
なまなましさのない艶麗さだ。


シテは、袖を被き顔を隠したまま、再び幕際に戻り、そこから総ナガシで本舞台へ。
天の岩戸が開かれ、まばゆい光が射してゆく――。

本舞台で被いた左袖を戻し、左袖を勢いよく巻き上げる。

天高く昇った燦々と輝く太陽!


「面白やと神の御声の、妙なる始めの物語」


ここで、一、二瞬の完全なる静寂。


時空の狭間は再び閉じられ、夜が明けて、
シテの留拍子とともに神話の世界の夢は終わった。







2017年3月23日木曜日

友枝昭世の會《三輪・神遊》前場~熊本復興支援特別公演

2017年3月22日(水) 19時~20時45分 国立能楽堂

能《三輪・神遊》シテ友枝昭世
  ワキ森常好 アイ山本東次郎
  松田弘之 曽和正博 柿原崇志 観世元伯→小寺真佐人
  後見 塩津哲生 中村邦生 狩野了一
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
     内田成信 金子敬一郎 友枝雄人 大島輝久





なんとか山場を越えて、久々の能楽堂へ。
行けるかどうかギリギリだったけど、拝見できてよかった!
ただ、この公演こそ元伯さんの太鼓で観たかった。
大曲の良い舞台であればあるほど、名人の不在がひびいてくる。
もちろん、代演の方は力の限りと尽くしていたし、全然悪くはなかったけれど、
囃子に関していえば、おいしいのになんとなくスパイスが効いてない優しい味。



【前場】
お調べを聴いてビックリしたけれど、笛もチラシでは杉信太朗さんだったのが
プログラムで確認したら松田さんになっていた。
「神遊」の神楽は笛が命だから?

ワキ(角帽子・茶水衣・灰無地熨斗目着流・紺房数珠)の登場のあと、
習ノ次第でシテが登場する。

幕があがってゆっくりと現れたシテの美しさにハッとさせられた。

出立は、渋い金茶と青みがかった銀色の見事な段替秋草模様唐織。
面は曲見だろうか。
増かと思うほど、艶やかで気品ただよう女面。


橋掛りを進むシテのハコビには重い摩擦感があり、
奥山の道なき道をゆく女の足取りと一途な思いを感じさせる。


一の松で後ろ(鏡板のほう)を向いて次第を謡い、
舞台に入って玄賓僧都に案内を乞う。

地謡「柴の編戸を押し開き」で、左手で戸を開ける所作、
「かくしも尋ね切樒」で、ワキに向かって下居、樒を置いて
「罪を助けてたび給へ」と、合掌。



〈シテの下居〉
秋の山居の寂寞とした景色が謡われるなか正中下居するシテの姿は、
定慶作の如意輪観音のように愁いを帯びた不動の美の結晶のよう。


名仏師が魂を籠めて仏像を彫りあげるように、
シテはみずからの肉体に魂を注ぎ込み、芸術品につくりあげる。


同じ型なのに、どのシテ方も、どの舞台も、それぞれ独自の下居姿があり、
先月の《東北》の下居と、この日の下居とは同じではない。

多くの名手が高齢になると下居を放棄せざるを得なくなるなか、
この佇まいの、息をのむほどの美しさ――。


わたしは奇跡のようなその姿に、ただただ見入っていた。




《三輪・神遊》後場につづく





2017年3月5日日曜日

《須磨源氏》~若手能 東京公演

2017年3月4日(土) 13時~16時10分 国立能楽堂
若手能《吉野静》《文蔵》からのつづき

能《須磨源氏》シテ尉/光源氏 松山隆之
    ワキ藤原興範 村瀬慧 従者 村瀬提 矢野昌平
    アイ里人 竹山悠樹
    成田寛人 田邊恭資 佃良太郎 大川典良

    後見 松山隆雄 小田切康陽
    地謡 梅若玄祥 山崎正道 角当直隆 山中迓晶
       坂真太郎 谷本健吾 川口晃平 小田切亮磨




先月の《錦木》のツレで、キラリと光るものを感じさせた松山隆之さん。
シテで拝見するのは初めてでしたが、期待以上のものでした。
最近、注目したい役者さんが増えてうれしい。


前場】
玄祥師が地頭の時は、中入りで地謡後列が抜けるのはよくあること。
膝・腰が悪いなどの理由があるのだろうから致し方ない。

ただ、この日は最初から地頭不在で、
地取りも地頭抜きで謡われ、
初同の直前になってようやく地頭が定位置に着くという異例の事態。
(これもよくあること?)

地頭は舞台のマエストロであり、要石のような存在だと思うし、
とくに曲の冒頭では、シテが本舞台に入るまで後見も不在だから、
それを補うべく舞台をしっかり見守り、土台を支えるのが地頭の役目だと認識している。

この公演の前日にEテレで一部放送された《利休―江之浦》を観ると、
主後見の九郎右衛門さんが緻密な集中力で
舞台の流れとシテの動きを注視されていた。

後見と地頭を中心に、出演者全員が舞台とシテに全神経を集中させ、
その集中力の交差するところにシテが存在する。
そのようにして舞台に「気」が集まり、強い磁場が形成されていく。

ゆえに、地頭・後見ともに不在だったこの日の冒頭には
隙間風が吹くようなスカスカの欠如感が立ち込め、
地頭の存在の大きさ、重要性を実感した出来事だった。

(カリスマ性のある玄祥師だからよけいにそう感じたのかもしれない。
玄祥師が加わった地謡は文句なく最強だった。)


〈ワキの出〉
村瀬慧さんをワキで観るのは二度目。
以前は《巻絹》の臣下役で、そのときも長絹に白大口姿。
この方は僧侶よりも、勅使や廷臣などの貴族風の出立のほうがよく似合う。
以前よりも堂々と落ち着いていらっしゃって、謡もワキツレともによかった。


〈シテの出〉
一声の囃子でシテが登場。
田邊さんの小鼓が好い味わい。
チ・タ音もきれいだし、掛け声にも覇気があり、以前にもまして綿密な皮の調整。
構えや立ち上がり方もそうだけど、皮を湿らす所作も源次郎さんそっくり。


幕から静かに姿を現したシテの姿には、そのハコビとともに気品があり、
「光源氏の化身としての老人」という難しい雰囲気を見事に体現していて、
期待以上の出来。

老人らしさを写実的に演出することなく、
姿勢の品格やハコビの速度・間合いでそれを表すのは容易ではないと思うけれど、
尉面と姿・所作がしっくり馴染んでいて、このシテの可能性をあらためて感じさせた。

使用された三光尉の面が庶民性を感じさせず、貴人的に見えたのは、
シテの力量によるものだろうか。


正中で下居する姿も美しく、鑑賞に値する。
この方は、静止の時にとりわけ光を放つ。

シテは光源氏の故事を語ったのち、送り笛で中入り。


【後場】
ワキ・ワキツレの趣きある待謡が、清澄な月を須磨の浜辺に描き出す。

出端の囃子で後シテ登場。
小鼓と太鼓の掛け合いが聴きどころ。

後シテの出立は、渋い青緑地の狩衣に灰紫の指貫、初冠・黒垂。
面は中将。
シテは「天もうつるや須磨の浦の」で露を取り、
「荒海の波風えんえんたり」で常座にて達拝、早舞へと入っていく。

盤渉早舞はきれいだった。
ただ、こちらがいまひとつ没入できなかったのは、
笛が息切れ気味だったのと、
シテの足拍子が気になったからだろうか。

拍子を踏む時に、足の甲が床と平行になるように足を上げるのではなく、
後ろに蹴り上げるようにして足を上げていて、
せっかくきれいなのに足の裏が見えたりするのがもったいない気がした。


とはいえ、袖を巻き上げ翻す所作も貴公子らしい優雅さで、
満足のいく舞台だった。





若手能 東京公演~能《吉野静》・狂言《文蔵》

2017年3月4日(土) 13時~16時10分 国立能楽堂

能《吉野静》シテ静 和久荘太郎
    ワキ佐藤忠信 御厨誠吾
    アイ衆徒 中村修一 内藤連
    栗林祐輔 森貴史 大倉慶乃助
    後見 今井泰行 山内崇生
    地謡 辰巳満次郎 野月聡 大友順 小倉健太郎
       東川尚史 當山淳司 辰巳大二郎 金森良充
 
狂言《文蔵》主 高野和憲 太郎冠者 内藤連
      後見 岡聡史

能《須磨源氏》シテ尉/光源氏 松山隆之
    ワキ藤原興範 村瀬慧 従者 村瀬提 矢野昌平
    アイ里人 竹山悠樹
    成田寛人 田邊恭資 佃良太郎 大川典良

    後見 松山隆雄 小田切康陽
    地謡 梅若玄祥 山崎正道 角当直隆 山中迓晶
       坂真太郎 谷本健吾 川口晃平 小田切亮磨



若手能には初めて行くけど、番組・配役ともによく練られている。
吉野山に咲く満開の桜と、須磨の海辺の月夜の桜。
静御前と光源氏という美男・美女対決。
シテも、若手というより中堅初期の「今が旬」のお二方。
研修修了生のレベルの高さも確認できて、満足度の高い公演でした。


能《吉野静》
和久荘太郎さんのシテを拝見するのは、五雲会の《忠信》以来。
今回が《吉野静》だから、同じシテによる義経逃亡支援劇をシリーズで観ていることに。

ワキとアイのやりとり】
お調べを聴いていると、栗林さんの笛が印象深い。
音色からカドが取れてくれば、もっと情趣が深まるだろう。
(栗林さんにはかなり期待しています。)

忠信が吉野の衆徒たちに、頼朝・義経兄弟が和解するというデマを流すくだり。
(本来は静と忠信の打ち合わせシーン(前場)があるところを、それがカットされて後場から始まるので、曲の冒頭が唐突な印象になるのは否めない。)

先週の《春日龍神》に引き続き、御厨さんのワキを拝見する。
この日の出立は、灰青色の掛素袍に段熨斗目着付、白大口、笠。
ハコビも笠の扱いもきれい。
欣哉さん系列のワキ方さんは芸が安定している。


アイは、肩衣脱下に括袴。
内藤連さんが落ち着きと存在感を増していた。
間の取り方もうまいし、これからどんどんご活躍される方だと思う。
(これだけ力のある方だから、シテでの舞台が増えるといいな。)



【静の登場→中之舞】
義経率いる十二騎が、一騎当千のつわものと聞いてアイたちが退散した後、
アシライ出で静御前が登場する。

静は、金で枝垂桜をあしらった紫長絹に緋大口、立烏帽子という白拍子の出立。
面は、癒し系の顔立ちの孫次郎。
人間的なぬくもりのあるこの女面をシテが選んだ理由が、
中之舞を観て少し分かった気がした。

衆徒を欺くための策略上の舞ではあるが、
和久さんの中之舞からは、静の健気さや、義経への一途な思いが伝わってくる。

二段オロシで左袖を巻き上げて脇正を向いた姿には、
義経との思い出に浸るような追慕の風情が漂い、
その逃亡を助けることが愛のあかしなのだという彼女の決意も感じられた。


地謡も番組を見た時から期待していたけれど、本番もやはり良かった。
(特に後列はわたしが宝生流で謡がうまいと思っている人が勢ぞろいしていて、
ハイレベルな取り合わせ。)
フライングしがちな人がいたものの、
座っている姿勢にもサムライ的な緊張感があって、この日の宝生の地謡は、謡・姿ともに◎

和久さんのシテと満次郎さんの地頭は、阿吽の呼吸。
(地頭がシテの意図を汲み、シテが地頭に舞わされる、
その相乗効果が舞台をつくりあげていた。)



狂言《文蔵》
シテの高野さんは披きなのかな?
ひどく緊張されていて、とくに床几に掛かった時に、万作さんが後ろで床几を支えたあたりから、こちらが気の毒になるくらい緊張されて、仕方話の息継ぎの呼吸音が激しく、呼吸困難になるんじゃないかと思うくらい。

精神的なものなのだろう。
舞台馴れ、楽屋馴れに関しては、どうしても途中から入った人は不利だから致し方ない。
とはいえ、しだいに落ち着いてきて、とくに所作や型はしっかりしていて見応えがあった。


背後で床几を押さえながら、高野さんに「気」や「念」を送る万作さん。
見所からはほとんど姿が隠れているはずなのに、舞台上で最も存在感がある。
ただ、床几を押さえているだけなのに。
ただ、坐っているだけなのに。
あの無言の存在感。
本物の舞台人って、こういうものなのですね。


アドの内藤連さんが、矢羽根と丸文のなかに鳩の入った肩衣を着ていて、可愛らしかった。


能《須磨源氏》につづく