2014年9月14日日曜日

銕仙会定期公演〈9月〉感想編 《采女・美奈保之伝》




宣伝用のパンフレットには載っていなかったから当日まで知らなかったのだけれど、片山九郎右衛門さんが主後見という嬉しいサプライズ!
九郎右衛門さんは、翌日には京都観世会の《融》のおシテを控えていらっしゃって、おそらくこの一番が終わったら京都にとんぼ返りなのだろう。
九郎右衛門さんの《融》、見たかった……。

などと思っていると、観世五宗家の《采女》が開演。
            
解説によると、「美奈保之伝」の小書なので、
前場ではワキ道行から地謡上歌までが、
後場では葛城王と采女の説話を語るクリ・サシ・クセが省略され、
猿沢池に入水した采女に焦点が当てられ、
全体的に水のイメージを強調した演出となるそうです。

藤田六郎兵衛さんの名ノリ笛で、ワキとワキツレ登場。
名ノリの後は、前述のように道行は省略され、ワキの呼びかけで、
前シテの里の女が登場します。

             
趣味の良い浅葱色とサーモンピンクの唐織に小枝と手にしたシテ。
面は、増女を若くしたような気品ある「まさかり」。
どこか悲しげで、もの問いたげな風情です。
春日神社演技を軽く語った後、猿沢池に入水した采女についての、
シテとワキのやり取り。
采女の遺体を帝がご覧になった時のくだりの「柔和の姿引きかえて」の
ところで、宝生閑が言葉に詰まったけれど、すかさず欣哉さんがフォロー。
この日の欣哉さんはいつもにも増してことさらハンサムに見えたのだけれど、
どうしてだろう……。

そうこうしているうちに、中入となり、合狂言の後、後シテの登場。

シテが揚幕から薄衣を被り、中腰のまま一の松までするすると進んでくる姿は、
おそらく水底から水面までゆらゆらと浮上するさまを表現したものなのでしょう。

                
水底から浮上した後シテは、
渋い朱色の緋大口に、品よく色褪せた抹茶色(?)の長絹という出立。
面は龍右衛門作の「小夜姫」。
この「小夜姫」の面が可憐にして妖しげな魅力をたたえていて、
ただ、ただ、うっとりと見入ってしまいました。
この面は少し大きめにつくられているのか、宗家のお顔をすっぽりと包み、
まるで生身の采女が顕現したかのよう。

           
この小夜姫の面は、たぶん室町時代のものだと思うけれど、
とても現代的な顔立ちをしていて、どこかホリヒロシの人形を思わせる。
(そういえば、ホリヒロシの人形舞って、梅若紀彰さんと共演していた記憶が。)

                    
能では面の持つ力や表情などがあらゆる位を決定し、
能面を選ぶ行為自体に、その曲に対する能役者の理解や意図が
反映されると言われますが、
まさに後場は、この小夜姫の面の持つ神秘的な美しさと、
御宗家の舞の神々しい魅力とが重なり、
能面とシテとが一体となって、
すべての物理的法則を超越したような甘美な世界が舞台上に展開して、
見る側はただもう陶酔したように、采女の悲しくも
美しい世界に引き込まれていきました。

                      
馬場あき子の『能・よみがえる情念』によると、
能《采女》が本説とする『大和物語』では、采女の入水の理由と
一夜だけ帝に召された采女が、衰寵に絶望し、死をもって帝に恨みを
訴えたのだとしているそうですが、
観世宗家の采女は、帝に一夜だけ召された哀れな一人の女の個人的な
悲しみというよりも、
天皇に奉仕しながら古代宗教儀礼に従事した美しい女の清浄な神聖さが
表現されていて、
どろどろした恨みや愛欲を超越した、水そのものの清らかさの化身のよう。

                                              
能面の持つ力と、
その力を自己の中に取り込み、自在に操るシテの力。

この拮抗があってこそ成立した水の結晶のように透明感のある一番でした。

                                                                                              

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