2014年12月28日日曜日

紀彰の会(4)~《砧》Part2

                        
舞台は、北の方の憂愁と孤独を代弁するかのように、
これ以上ないほどゆっくりと(通常の1.4倍くらいのペースで)進行していく。

この奥深く物悲しい舞台のリズムを土台からがっちり支えるのが、
梅若玄祥率いる地謡陣。

シテが抱く《砧》の世界観を完璧に理解している地頭(地謡)、という最強の支援部隊。
強力な後方支援を得たシテは、独自の《砧》の世界を舞台上に自在に描いていく。


シテ「露の玉簾、かかる身の
地「思いをのぶる、夜すがらかな

高くジャンプする前に身をかがめるようにシテは面伏せ、地謡も低く謡った後、
「宮漏高く立ちて、風北にめぐり」と、高く伸びやかな上ノ詠となる。

この波打つようにドラマティックな節まわしが、観る者の胸をぐわんぐわんに揺さぶり、
私は否が応でも号泣モードに入っていく――。



月のいーろー、風のけしき、影に置く霜までもー」

日本のマニエリスト・抱一の描く秋草図の情景が目の前に出現する。
荒涼とした夜嵐の音が聞こえる冷たい銀色の世界。
そのなかで孤独に舞う、臈たけた北の方。
日本美の極致――。

この日は囃子方も名手揃いだったが、お囃子さえ不要と思われるほど、
シテと地謡が圧倒的な力で、《砧》の世界に観客を引き込んでいく。




それにしても、
モダニズム文学さながらに、シテの意識の流れを自然描写と巧みに融合させながら
美しい詞章で表し、心揺さぶる節付けをした世阿弥の前衛性には改めて驚かされる。

猿楽の芸から、一気にここまでの洗練を果たした世阿弥。
時を超えて、いまここで、世阿弥の作品にじかに触れ、感動することのできる幸せ、不思議さ。
紀彰さんの御舞台を拝見しながら、
芸をつないでいくことの奇跡と貴さに思いを馳せたのでした。



「砧の段」を終え、例の物議を醸す言葉「この年の暮れにも御下りあるまじきにて候」を夕霧から告げられ、
シテは双ジオリして、一縷の望みさえも断たれ、ショックのあまり免疫力が低下して帰らぬ人となる。

(この時、夕霧がシテの背後に回って支えるしぐさをするのですが、
その所作に女主人への労わりがさりげなくこもっていて、
谷本健吾さんの夕霧って、やはり好いなと思ったのでした。)















        

                                       
                   

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