2014年12月29日月曜日

紀彰の会(5)~《砧》Part3

シテの中入りと間狂言の後、ワキの芦屋何某が再び登場。
例の名詞「無慙やな三とせ過ぎぬることを怨み……」となる。

これまで《砧》のワキは、宝生閑・欣哉師のを拝見してきて、
森常好師の芦屋何某を見るのは初めて。
森常好師は好きなワキ方の1人だが、どうしても先の2人と比べてしまう。

宝生閑の「無慙やな……」は別格で、
枯れてかすれた声が発するこの一語に万感の思いが込められていて、
胸にぐっと突き刺さった。

欣哉さんは情感のこもったまなざしで、
静かにシテの思いと怨みを受け止める包容力のあるところが魅力だった。

一方、この日の森常好師は、美声は相変わらず素晴らしかったけれども、
シテに対する思いや愛情がいまひとつ伝わってこなかった。
(そのことが、最後の「法華読誦の力にて」でシテが成仏する場面の唐突感の一因となり、
それがこの舞台での唯一の欠点となったように思う。)



さて、ワキの待謡の後、いよいよ後シテの登場。
そして、いよいよ元伯さんの太鼓の出番となる。

観世元伯さんの能《砧》の太鼓を聴くのはテアトル・ノウに続いて2度目。
テアトル・ノウの時は、鎮魂の鐘の音のような金属音っぽい、高い打音だったように記憶しているけれど、この日の太鼓はどことなく「懴法」を思わせる、重く、低い打音に聴こえた。

冥界から霊を呼び寄せる梓弓の弦の音色も、このように重く沈んだ音なのだろうか。

後シテは白綾壺折に清涼感のある浅葱の大口をまとい、杖をついて現れる。
泥眼の表情には怨みめいた感情はみじんも感じられず、ひたすら悲しげで可憐な目をしている。
つらい恋をしている女の目だ。

シテは地獄のありさまを語り、蘇武の故事にちなんで砧を打ったのに、どうして夢にさえ見てくれなかったのか(私の思いが届かなかったのか)と、夫に激しく詰め寄る。

思いのたけをぶつけたのち、地謡の調子が一変。
夫の法華経読誦の力によって(夫がまだシテを愛していて、シテのもとに帰ってくるつもりだったことがシテに通じて)、シテは成仏することになっているのだけれど、ここが(シテのせいでは決してないのだが)観る者に唐突な印象を与えてしまう。

(テアトル・ノウと比べてばかりで申し訳ないが、味方玄さんの公演の時は、この終曲の場面で、シテ・地謡・囃子・ワキが一体となって、シテの心の浄化・昇天感を生み出し、一条の光とともに天使の梯子が降りてくるのが見えたのだった。見る側の体調や気分の問題もあるのかもしれないけれど。)


そういうわけで、「紀彰の会」ではシテだけが清らかに成仏して、

他がついてこれていない気がした。
シテの動きやリズムはすでにこの世のものではなく異次元にあるのに、

その他の人たちはまだ現世にとどまっているような――(実際、そういう設定になっているのだけれど。あまりにもゆったりとしたテンポに、江戸っ子の大鼓が肌に合わず、いつもの打音の繊細さが存分に発揮できていないように感じた)。

それほど、シテと能面が一体化・融合化していて、
シテの身体は蜻蛉の羽のように朧げに透き通り、
この世ならぬ存在となっていたのだ。
                     
シテは静かに、水中を漂うようにゆっくりと、橋掛りを進み、
ワキが続き、地謡と囃子方が立ちあがる。
                      


                                                                   
そして最後に太鼓方が太鼓と扇を持って、スッと立ち上がり、
揚幕のほうに向き直って
舞台に終止符を打つように特徴的なリズムで半歩下がり、
絶妙な「間」を置いてから歩み出し、橋掛りを去ってゆく。

その流れるような一連の所作を
私は目で追い、舞台の終幕を惜しむように、
彼の人の姿を心を込めて見送るのだった。




                                                     



                     

               

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