2015年3月31日火曜日

神遊49回公演・ワキ方が活躍する能《谷行》

                               
山伏が大勢登場する、いわばワキ方版《安宅》。
さらに、シテが2人(梅若玄祥師と観世喜正さん)でダブルヒーローを演じるという、
とても豪華な舞台でした。


【前場】
まずは、登場楽(お囃子)なしでワキの阿闍梨と、松若母子が登場。

前シテの松若の母(観世喜正)の存在感が際立ち、
下居する佇まいから奥ゆかしい気品が漂ってくる。

唐織には小菊がびっしりあしらわれ、緑・青・灰色をぼかしたようなシックな色合い。
深井の面も凄みのある美人で、ただの山伏見習いの子供の母親とは到底思えない。
高貴な身分の女性が、何か暗い過去があって子供とともに身を隠しているのでは?
と思わせるような、物語性を感じさせる謎めいた美女。

(喜正さんの鬘物を拝見したいのだけど、東京ではなかなかないのですね。
昨秋、喜正さんの《六浦》を見るために、鎌倉能舞台まで足を運んだほど。)

風邪気味の母君を看病していた松若は、母の現世を祈るため、
師・阿闍梨の峰入りに同行することを決意する。
母は泣く泣く、松若を送り出す→一同退場


中入】
深山断崖に見立てた作り物が脇正面側に置かれる。
(作り物は、一畳台の上に、葉のついた2本の生木を対角線上に立てたもの)


後場】
京都から葛城に峰入りした総勢7人+子方1人の山伏一行が登場。
阿闍梨の茶色の水衣をのぞいて、あとの山伏はグリーン系(1人だけ水色)の水衣で、
全体的に爽やかな印象です。
一同は縦2列に並んで道行を謡った後、地謡座前に居並ぶ。これも安宅っぽい。

葛城の山深く分け入るにつれ、子方の松若が(おそらく母の風邪がうつったのか)、
体調不良を訴える。
峰入りの途中で病気になった者は谷底へ突き落とすという厳しい大法(谷行)があるため、
阿闍梨は松若を庇おうとするが、他の山伏に悟られる。


ここの阿闍梨(森常好)と小先達(殿田謙吉)とのやりとりが見所の1つ。

とくに殿田さんは、いぶし銀のように渋いワキを演じる方だと常々思っていて、
この日も、情と理性の板挟みになりながらも山伏としての本分を全うするべく
上司の阿闍梨に意見する中間管理職的な山伏の内なる葛藤が
芸の端々からにじみ出ていた。


子供を谷に突き落とす残酷な場面では、
2人の山伏が子方を抱きかかえたまま、例の作り物を通り抜け、
子方を作り物と目付柱の間のスペースに寝かせ、さらに上から茶色の布をかぶせることで、
子供を谷へ突き落とし、石瓦(土木盤石)を遺体の上に被せたことを表すという、
能のミニマルで象徴的な表現力が生かされた演出だった。
こういうのを考案した人って、ほんとにすごいと思う。


山伏一同、男泣き。
阿闍梨は、嘆きも病気の一種だから自分も谷に突き落としてくれという。
そこで一同は長年の修業の成果を発揮するべく祈りの力で松若を蘇生させることにする。

数珠をもみ、一心に念じる山伏たち。

祈りが通じたのか、
ティンバニを思わせる重々しい太鼓の入った大ベシに乗って、役行者(梅若玄祥)が登場。
鈴杖をつく威厳に満ちたその姿。
誰にも真似のできない重厚感、威圧感。
苦行に耐え抜いた行者にぴったりの痩せた精悍な面。
橋掛りを進むだけで舞台の空気が一変し、
死者の蘇生というあり得ない奇跡が起きても不思議ではない雰囲気が醸成されていく。

続いて囃子が早笛に切り替わり、
絶妙のタイミングで幕がサッと開いて、
役行者の使い、伎楽鬼神がスーパーヒーローさながらに颯爽と登場。
本舞台に躍り出るや、作り物の一畳台(谷)に駆けのぼり、
生木の枝を斧でなぎ倒し(すごい勢いで葉っぱが飛び散り、夢ねこ思わず爆笑)、
子方にかぶせてあった茶色の布(土木盤石)を取り払って、
子方を抱きかかえ、役行者の前に差し出す。
(このあたり、前半の能《張良》で蛇神が沓を拾って張良に差しだす動きと重なる。
お囃子も似ているし。)

さらに鬼神は橋掛りに行き、一の松で欄干に片足をのせ、決めポーズ。
揚幕の前で役行者と鬼神のダブル・シテがプレスリリースの撮影会のように、
ポーズを取りまくって、華やかに幕入り。


来年は最終公演。
九郎右衛門さんも御出演されるし、絶対に観にいこう!!













2015年3月29日日曜日

友枝昭世の會 特別公演 《井筒》

2015年3月28日(土)15時半開演   国立能楽堂

 能 《井筒》  シテ 友枝昭世   


    ワキ 宝生閑  アイ 野村万蔵

    囃子 一噌仙幸  曽和正博  柿原崇志
    後見 塩津哲生  中村邦生
    地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
       友枝雄人 内田成信 佐々木多門 粟谷浩之




能一番のみという、友枝昭世師ならではの簡素にして極上の公演。


お囃子は、日本芸術院賞を受賞されたばかりの柿原崇志師、
いつもながらクリスタルな音色が美しい一噌仙幸師、
後場で月夜の情景を鼓の音で描きだした曽和正博師。

そして慈愛に満ちたまなざしでシテをこまやかに見つめ続けたワキの宝生閑師。


アイ狂言の野村万蔵師をのぞけば、シテと三役の平均年齢はとても高いのだけれど、
お能ってほんとうに凄い芸術だと思う。
                      
芸の力によって、老いが究極の美に転じる芸術。
経験と鍛錬の積み重ねが、肉体の限界を超越させる芸術。
お能の凄さを再確認した舞台だった。



前日にも野村四郎師の《井筒》のワキを勤めたばかりの宝生閑師が名ノリ笛で登場した後
次第の囃子でシテの友枝昭世師が気配を消したようにひっそり静かに登場。

古風で愛らしい小面に、ゴールドがかったクリーム色と薄い朱色の段替えの唐織。
衿は白と朱色の艶やかな装い。


暁ごとの閼伽の水、月も心を澄ますらん


木の葉の入った水桶と数珠を手に悲しげに謡う謎の女は、旅僧に請われるままに
ススキの生えた古塚に眠る在原業平とその妻の物語を語る。


シテは正中で古塚に向かって下居し、業平とその妻の幼き日々の回想が
居グセのなかで地謡によって語られる。

女が見つめる古塚は、彼女の記憶の中で、業平と遊んだ井筒へと変わり、
その映像がワキの心眼に投影され、
恋が芽生えた幼い男女の無垢な姿が観客の目にも映し出される。

         

         

筒井筒、井筒に掛けしまろが丈、生いにけらしな妹見ざる間にと読みて贈りける程に


シテと地謡の謡が美しく、胸に切々と響く。




後場。
初冠に追懸をつけ、桐の葉(?)模様の紫地長絹に上品な朱色の縫箔を腰巻にしたシテが
足のない幽霊さながらに、静かに橋掛りを歩いてくる。
                 
彼女のハコビはもはや人間の体重を載せていない。
ただ、彼女の追懐と思慕の念だけが女の姿となって運ばれてくる。



月明かりと澄んだ笛の音に清められた空間のなか、
古井戸のかたわらに凛然と立つススキと、待つ女の亡霊――。

待つこと以上に辛いものがあるだろうか。

ましてや希代のプレイボーイ、業平をひたすら待ち続けるのだ。
なんと過酷な人生を彼女は生きたのだろう。


その辛く悲しい人生を彼女は自ら選びとり、見事に生き抜いた。
きっと待つことこそが彼女の生きざまであり、矜持だったのだ。
ただ一途で可憐なだけではない、芯の強さ、たおやかさ。

                
                     
優美に舞う彼女の内には、
風に靡くススキのような強靭なしなやかさが秘められている。

          
                      
小説や絵画や演劇・映画に登場する日本女性が美しいのは、
自己主張して、相手を意のままにする欧米的な強さではない、
自分を抑え、孤独に耐える精神的な強さ、潔さがあるからだろう。


甘美な思い出、嫉妬に燃えた灼熱の苦しみ、流したいくつもの涙。
折り重ねられた歳月を哀惜するかのように、待つ女は静かに序ノ舞を舞う。
                              


一噌仙幸師の笛が奏でる繊細に澄みきった序ノ舞。
大小鼓の掛け声の枯淡な味わい。

そして、肉体の生々しさから解放された洗練美の極みのような友枝昭世師の舞姿。


一瞬ごとに消え去ってしまう夜露のような美しい世界。
             
この美に立ち会うことのできた幸せに、私はただただ恍惚として、浸りきっていた。



終曲部は世阿弥の作曲の妙が存分に発揮され、
友枝師は世阿弥の思いと工夫を存分に汲んで演じていらっしゃった。



井筒にかけしまろがたけ、生ひにけらしな、老いにけるぞや
さながら見みえし昔男の冠直衣は女とも見えず、男なりけり、業平の面影



シテはここで左手を井筒の枠にかけ、古井戸をじっとのぞきこむ。

時はさかのぼり、記憶が映像となって甦る。




見ればなつかしや


            
この時、彼女が井戸の中に見たものは業平の姿。
そして、幼き日の2人の姿だったのかもしれない。


              
我ながらなつかしや


さらに、シテは扇を持った右手でススキをかき分け、井戸の奥をのぞく。

このときおそらく彼女が追慕したのは、
業平が愛した若き日の、美しかった彼女自身の姿ではないだろうか。

(美少年時代を回顧しながら本曲を書いたであろう世阿弥自身の姿が、
ここで亡霊の姿と重なり合う。)


亡婦魄霊の姿はしぼめる花の色なうて匂ひ


若き日の自分自身に再び出会った彼女は、悄然と扇で顔を隠しながら、
花がしぼむように座りこみ、そして、立ち上がる。
                       
若さを失っていくときの女の哀しみと優雅な諦観。


寺の鐘が鳴り、夜が白々と明けてくる。


シテは留拍子を踏むことなく、
見る者を夢の中に残したまま、
橋掛りを通り、揚幕の奥の異空間へと還っていった。










2015年3月25日水曜日

神遊49回公演・ワキ方が活躍する能~独吟《藤戸》、一調《船弁慶》、仕舞《雲雀山》

能《張良》を終え、いくぶん興奮した気配が漂うなか、
宝生欣哉さんが場を鎮めるように藤戸を朗々と謡い上げた後、
いよいよ福王和幸師×観世元伯師の一調《船弁慶》。


今月、元伯さんの一調を立て続けに拝聴するという僥倖に恵まれた。
                   
1度目のお相手は観世流の中森貫太師、2度目は宝生流の辰巳満次郎師。
そして3度目となるこの日は、福王流の和幸さん。


最初に登場した時、福王和幸さんが太鼓方からかなり離れた場所に座ったので
ちょっとびっくり。

これが福王流の流儀なのか、和幸さんだからなのか。
(もしかするとこの方、とてもシャイなのかもしれない。)


そんなわけで通常の一調のような、囃子方と謡い手との激突感はなく、
福王さんが超然と孤高を保って謡っていくのを、
太鼓が先読みしながら「手」を入れていくような感じだった。


とはいえ福王さんの一調は、低くて渋みのある好きな謡。
これからどんどん熟成されて、芳醇なワインのように深みが増していく気がする。


元伯さんの太鼓は、
この日は違う太鼓(大ベシ用の太鼓?)を使っているのか、
それとも少し緩めに締めているのか、理由は定かではないけれど、
前回2回と比べて、やや重く、低い打音。
福王さんの声質に合っていたと思う。



そして、とても貴重な宝生閑師の仕舞《雲雀山》。

パンフレットには、
「私も此のところ足も弱り出来るかわかりませんが、懸命に勤めたいと思います」
という、謙虚なお人柄がしのばれる閑師の言葉が寄せられていた。


宝生閑師の舞には、
極彩色に塗られた仏像が長い歳月を経て文様が剥落退色し、
美しい木目が現れて黒い艶を帯びたような、古色をたたえた趣がある。





2015年3月24日火曜日

神遊49回公演・ワキ方が活躍する能《張良》

      

森常太郎さんの記念すべき《張良》披き公演。


側次に白大口姿で登場した時は少し緊張したご様子でしたが、
中入後、唐冠をかぶり、きりりと鉢巻を巻いた姿で登場し、
一の松で見得を切るような凛々しい演技や、
大小前の一畳台に片足を載せてポーズをとる「遠山の金さん」風の演技、
そして最大の見せ場となる、
川に投げ入れられた沓を取りにいく場面は、カッコよく決まっていました。



一畳台に座る(馬上の)黄石公の背後から、
後見の観世喜正さんがポーンと沓を投げ、
それが目付柱手前のほどよい地点にランディング。


その沓をを取ろうと、
反り返りで身体をそらしながら、身体をくねらせクルクル回る常太郎さん。

見事な身体表現力!
渦を巻きながら流れていく急流がありありと浮かんでくる!               
この型を考案した人も、演じる役者さんも、凄い。

イナバウアー並みの背筋と柔軟性を鍛えていないとできない技ですね。
(かなりのエクササイズになるのではと、個人的にやってみたくなりました。)


この急流での演技に合わせて、常太郎さんの厚板に、
砕け散る波模様があしらわれていたのも素敵でした。




そして、ノリノリの早笛に乗って、蛇神(龍神?)が勢いよく登場。
舞働で、真っ赤な舌を振り立てながら、張良めがけて襲ってきます。


でも、張良はあわてずさわがず剣を抜き、大蛇に応戦。
                
剣の光に恐れをなした大蛇は、沓をとって張良に差し出し、
後退しながら、一回転しようとしたのですが、
飛び返りの角度と現在地・舞台空間の把握をあやまって、
舞台端を飛び超え白洲に着地。
                            
                            
                
(舞台には一畳台が大小前に置かれワキ方が正中にいて、龍神の動ける範囲が狭いうえに、
面・龍戴・重い装束をつけて複雑な動きをした後の舞台端での
アクロバティックな演技だったため、極めて難度の高い飛び返りだったと思います。)


能楽堂全体が凍りついた瞬間でした。
誰もがあっと息をのみ、
蛇神が舞台から落ちていったのがスローモーションで記憶に刻まれています。


見事だったのは、蛇神がまったく体勢を崩さずに、
白洲の上に片膝をついて美しく着地したこと。
               
               
その後、スッと立ち上がり、舞台正面の階を上って、舞台上に復帰。
脇正面側に下居して、呼吸を整えながら、しばし待機していらっしゃいました。


この間、地頭の玄祥師が謡を引きのばして時間を調整しようとする一方で、
地謡の一部は平常を取り戻そうと通常に近いテンポで謡っていたため、
地謡は少し乱れたものの、

お囃子は動揺を表にはまったく見せずに演奏を続け、
常太郎さんも冷静に一畳台に上がって、沓を石公の足元に置き、
無事に沓を履かせたことを表現されていました。


そして、心を落ち着けようとしている蛇神の赤頭を
後見の喜正さんが励まし労わるように整えているのが印象的でした。


ここで、囃子が急調に転じて、
蛇神が軽快な足取りで橋掛りを駆け抜け退場。

囃子がゆっくりしたテンポに変わると、石公が一畳台から下りて
橋掛りを進み、金色の光を虚空に放ちながら黄色い石となって、
揚幕の彼方に消えていきます。



ハプニングはあったけれど、
出演者が一丸となって勤めあげたインパクトのある好い舞台でした。
(私は殿様だったら「天晴、褒美をとらす!」と賛辞を贈りたくなるような舞台。)


川口さんも大事に至らなかったようで、ほんとうに何よりです。







2015年3月22日日曜日

神遊 第49回公演~ワキ方が活躍する能

2015322日(日)11時半開演  国立能楽堂

  
能 《張良》
     シテ老翁/黄石公 観世喜之 ツレ蛇神 川口晃平
     ワキ張良 森常太郎    アイ下人 高野和憲
     一噌隆之  観世新九郎  柿原弘和  観世元伯
     後見 観世喜正 桑田貴志
     地謡 梅若玄祥 山崎正道 藤波重彦
         小島英明 佐久間二郎 長島充

 
独吟 《藤戸》  宝生欣哉
 
一調《船弁慶》 福王和幸 観世元伯
       
            
仕舞 《雲雀山》 宝生閑 
      地謡 宝生欣哉 大日方寛 御厨誠吾
 
  〈休憩30分〉
             

狂言 《寝音曲》 野村萬斎 石田幸雄
           後見 中村修一
        
                
能 《谷行》
   シテ 松若の母/伎楽鬼神 観世喜正
   シテ 役行者 梅若玄祥    ワキ 師阿闍梨 森常好
     ワキツレ 小先達 殿田謙吉    相談役山伏 舘田善博
           同山 野口琢弘 梅村昌功 野口能弘 則久英志
     アイ 下人 深田博治
   一噌隆之  観世新九郎  柿原弘和  観世元伯
    後見 観世喜之 長島充 川口晃平
    地謡 山崎正道 鈴木啓吾 馬野正基
       桑田貴志 佐久間二郎 中森健之介




はじめて訪れた神遊の公演。  

でももう、あと1回で20周年50回目の、最終公演!
もっと早くからお能にハマっていればよかった。
                
初期の神遊の活動は、能楽界では画期的な現象だったのだろうか。


神遊の最終公演って、
人気バンドの解散ライブみたいだろうなあと思いながら公演前日に就寝したら、
神遊のメンバーがバンドを組んで(私服で)ステージで演奏しているという、
おかしな夢を見ました(笑)。


喜正さんがヴォーカルで、
隆之さんがサックス、
新九郎さんがベースで、
弘和さんがリードギター、
そして元伯さんが(そのまんまだけど)ドラム。


考えてみるとこのメンバーって、ミスチルやスピッツ、ラルクと同年代なんですねー。
そう思うと、感慨深いものがある……。



感想は別記事にて、明日以降に。




追記:公演中、蛇神の飛ビ返リの際に舞台から落ちるという
   アクシデントがあり、御身体が心配です。
   来月は《巴》のシテを控えていらっしゃるし、
   御怪我をされていないことを、ひたすら祈るばかりです。

   舞台端(脇正面側)でのアクロバティックな演技
   (とくに面をかけ、重い装束・龍戴をつけた場合)は大変危険で、
   能楽師の方々の大切なお身体を守るためにも、
   正中か地謡座前での演技に変えるかどうかしないと、
   と個人的には思いました。


 














               

2015年3月21日土曜日

日本能楽会・新会員披露記念会


2015年3月17日15時開演 観世能楽堂
 
舞囃子《高砂》 大松洋一 ワキ 江崎敬三
  槻宅聡 曾和尚靖 石井保彦 上田慎也
   地謡 観世喜正 鈴木啓吾 小島英明
    久保誠一郎 坂真太郎
 
独鼓 《駒之段》(幸清流)佐藤俊之 森澤勇司
 
仕舞 《祇王》(宝生流)松田若子 石黒実都
   地謡 大友順 野月聡 渡邊茂人 小倉伸二郎
 
仕舞 《難波》 武富康之
   《屋島》 浅見慈一
   《羽衣》 津村聡子
   地謡 浦部幸裕 吉浪壽晃 寺澤幸祐 橋本光史
 
袴狂言《口真似》 善竹隆司 山本泰太郎 山本則孝
   後見 山本東次郎
 
舞囃子《小袖曽我》 水上優 小倉健太郎
   相原一彦 竹村英敏 高野彰
   地謡 大友順 野月聡 渡邊茂人 小倉伸二郎
 
連吟 《熊野》(金剛流)今井克紀 豊嶋晃嗣
 
独鼓 《田村》キリ 武田孝史 小鼓 幸正佳
 
仕舞 《舎利》 遠藤和久 遠藤喜久
   《鞍馬天狗》角当直隆
   地謡 浦部幸裕 吉浪壽晃 寺澤幸祐 橋本光史
 
舞囃子《竹生島》 佐々木多門
   藤田六郎兵衛 荒木建作 井林久登 麦谷暁夫
   地謡 粟谷能夫 友枝真也 大島輝久
 
一調 《放下僧》小歌 野村四郎 柿原光博
 
袴狂言《福の神》野村又三郎 井上松次郎 高澤祐介
 
舞囃子《龍虎》 味方團 田茂井廣道
  藤田六郎兵衛 古田寛二郎 飯嶋六之佐 桜井均
   地謡 加藤眞悟 藤波重孝 八田達弥
      山中迓晶 岡庭祥大
 

 


東京のみならず、名古屋・関西・九州のさまざまな流派を拝見できる新会員披露記念能。
とても充実した会でした。


まずは、舞囃子《高砂》。

大鼓の石井保彦さんと太鼓の上田慎也さんは初めて拝見するけれど、
どちらもとても好い囃子方さんだ。  
要チェック!
(観世流の太鼓も好きだけれど、
神舞の時は金春流の太鼓の譜のほうが華やかで迫力がある。)

槻宅さんの笛も、寺井政数・中谷明系の笛で私は好きなのです。

観世喜正さん地頭の地謡も言うまでもなく素晴らしく、
久しぶりに鳥肌の立った《高砂》だった。



幸清流の独鼓、森澤さん、少し緊張されていたような。
国立能楽堂研修生から重要無形文化財総合指定に認定されるのは
並大抵のことじゃないだろうな。
蔭ながら応援しています。




宝生流の仕舞《祇王》と舞囃子《小袖曽我》は、どちらもきれいに合っていた。
観世流の相舞って、わりとバラバラで「我が道を行く」的な
(違いを楽しんでください、みたいな)ところがあるけれど、
宝生流は合わせ鏡のように美しく合わせることを重視するのかしら。


こういう会って、謡や舞の流派の違いを比較できるから面白い。


舞囃子《小袖曽我》では、竹村英敏師の小鼓がとても好い響きでした。
この方も京都の囃子方さんなのですね。


関西のシテ方さん(浦部幸裕師、吉浪壽晃師、寺澤幸祐師、橋本光史師
で固められた仕舞の地謡も素晴らしかった。



遠藤和久・喜久兄弟の仕舞《舎利》も迫力満点。



そして圧巻だったのは、舞囃子《竹生島》。
佐々木多門さんはツレでしか拝見したことがなかったけれど、
この方の謡と舞姿には人を惹きつける「花」がありますね。
足拍子を踏むときにも上半身はまったく不動で、揺るぎのない美しさ。

こういう方の光る舞を観ると、
たんに上手い芸と、魅力的な芸との違いとは何だろうと思ってしまう。

好みの問題もあるだろうけど、ただ「うまいね」で終わる人と、
観る者の心に突き刺さる「何か」を持っている人との違いとは、
いったいなんなのだろう?



和泉流の袴狂言《福の神》。
野村又三郎さんの圧倒的な存在感!
発声も素晴らしいし、なによりも凄いのは、いかにもめでたい笑い声。

狂言師にとって、面白おかしく笑うことは必須科目だけれど、
ほんとうに可笑しそうに、そして祝言性を醸しながら
うまく笑える人はそう多くはない。
笑い方は、狂言師の芸力の1つの物差しになる。



最後は田茂井さんと味方團さんが《龍虎》を舞い、
「千秋の秋津島、治まる国ぞ久しき」と《淡路》の附祝言で御ひらき。



終演後は、遠方から来られた能楽師さんや他流の能楽師さんたちが
観世能楽堂の前で写真をパチパチ。

帰り道では、
観世宗家(いつも黒塗りの車での送迎なので徒歩なのにビックリ)や
山本東次郎師(いつ見ても可愛い!)をはじめ、能楽師の方々がぞろぞろと東急のほうへ。
おそらく記念披露パーティに向われていたのでしょう。

こういう松濤名物的な光景も見収めです。


さようなら、観世能楽堂!













 

新作能《針間》披露公演&梅原猛氏講演


2015316日(月)  開場1420分 開演15

講演 梅原猛 -牛飼いから帝になった二人の皇子の物語
        

解説 新作能《針間》  藤田六郎兵衛
  (梅若玄祥師がNHKの録画撮りのため到着が遅れたこともあり、
   飛び入りで、新作狂言《根日女》出演小学生による舞披露)

 

半能 《針間》
 兄・おけ王(後の仁賢天皇)大槻文蔵
 弟・をけ王(後の顕宗天皇)大槻裕一
 小盾(国司)梅若玄祥  
 伊等尾(志染村の首) 福王和幸
 囃子 藤田六郎兵衛 田邊恭資 山本哲也
 地謡 観世銕之丞 赤松禎友 寺澤幸祐

 

 

 

藤田六郎兵衛師による挨拶のあと、梅原猛先生の公演。

新作能《河勝》、《世阿弥》に続いて三作目となる本作《針間》は、
いちばん出来がよく、自信作とのこと。

創作は難航して、去年の夏に完成予定だったのが、伸び伸びになって、
クリスマスになり、さらにそれも「なかったことにしてくれ」と頼んで、
完成したのが今年の1月下旬。

それから舞や囃子の譜をつけていったので、
六郎兵衛師や大槻文蔵師はここまで来るのに大変苦労したそうです。

         
          

        
ちなみに、梅若玄祥師は「いちばん台詞の少ない役でお願いします」と
おっしゃっていたそうですが、出来上がってみると台詞が多く、
おそらく殺人的スケジュールのなか憶える時間がなくて、
この日も玄祥師の台詞の部分は、地謡の赤松師が謡本を読みながら
代行されていました。


さて、
新作能《針間》は、播磨国風土記1300周年を記念して兵庫県加西市の
依頼によりつくられたもの。
                     






あらすじは、
            

456年10月(ということは、飛鳥時代より前の古墳時代!)、
皇位継承争いにより父を殺された2人の兄弟皇子(おけ王とをけ王)は、
命を狙う雄略天皇から身を隠すため、志深村首・伊等尾(いとみ)の家で
牛飼に身をやつし数年を過ごす。

            
そんなある日、伊等尾が催す宴に国司が招かれる。
宴の席で歌を所望された弟のをけ王は、謡い舞いながら、
その歌詞の中で自らの正体を明かす。

                      
国司はこれを都に報告し、2人の皇子は都に迎えられ、
まずは弟が、つづいて兄がそれぞれ即位して天皇となる、
めでたしめでたし
                
というお話。


この日の新作能披露では、
宴のなか、伊等尾(福王和幸)と国司(梅若玄祥)の前で
兄弟皇子(大槻文蔵・裕一)がまずは1人ずつ舞い、
さらに相舞をして、最後に国司の梅若玄祥が
身分を明かした皇子たちを祝って舞うハイライト部分を上演。


本番はどうなるか分かりませんが、今回は出演者皆さん直面。
地謡も囃子方もそれぞれ謡本と譜を見ながらの上演となりました
(たぶん、地謡や囃子方の中には真面目にきちんとお稽古されてきて、
謡本や譜面を見る必要のない方もいらっしゃったのだと思います。)








さすがだったのは、シテ・ツレの大槻文蔵師・裕一さんと
ワキの福王和幸さん。
台詞も舞も所作も通常の公演と変わらずきちんとされていて、
どのような公演でも、つねに完璧を目指すプロフェッショナルな姿勢が
現れていました。

でもそれ以外は、全体的に、なんというか(本音を書くのは難しい)。

お忙しいのだろうし、
新作能ができたてほやほやで時間がなかったのだから仕方がなく、
ほかにもさまざまな事情がおありかとは思います。
今回の上演は主にプレス発表が目的で、
無料招待客はありがたく拝見させていただくべきなのでしょう。
 
が、
正直申し上げると、申し合わせを拝見しているような印象。
お調べの時も、揚幕の奥(or楽屋)から話し声や笑い声が聞こえてきて、

(中略)

         

……それでも、時間を割いて足を運んだ甲斐があったのは、
大槻文蔵師と裕一さんの舞が拝見できたこと。

牛飼いに身をやつしているので、ブルーグレーの水衣を腰のあたりで紐で結び、
ダークグレーの(裕一さんはうす紫)の袴(?)のようなものを着用し、
ヘアスタイルは蔓を首のあたりで結わえて、古代の労働者風の装束。

そんなみすぼらしい身なりをしていても、高貴な生まれは隠せないことを
格調高い舞で見事に表現されていました。

裕一さんも美しく端正な舞姿。
関根祥丸さんよりもさらに5歳くらいお若いのかしら。
次々と逸材が出現するので、これからが楽しみです。


追記;
予想はしていたのですが、やはりこの《針間》も詞章が現代語。
地謡の一部は古文だったので、そこだけなんかホッとするというか……
              

現代語の詞章は、たとえ節がついていても学芸会のセリフっぽく聞えて
お能の型や所作、雰囲気とのギャップがあってチグハグ。

関西出身の私にとって加西市は馴染みのある場所ですし、
播磨国風土記に記された地元の伝承を能楽にして伝えていきたい、
という趣旨は素晴らしく、それにはとても賛同します。
                    
だからこそ、美しく、お能らしい詞章で作曲してほしかったと
個人的には思うのです。



 

2015年3月10日火曜日

第六回青翔会 《仏師》《半蔀》《三輪》《田村》


201539日 国立能楽堂 16時開演

狂言 《仏師》 すっぱ・野村太一郎 田舎者・河野佑紀 
       後見 野村万蔵

舞囃子 《半蔀》 辰巳大二郎
      小野寺竜一 岡本はる奈 佃良太郎
   地謡 宝生和英 辰巳満次郎 高橋亘
      金井賢郎 佐野弘宜

舞囃子 《三輪》 金春憲和
      栗林祐輔 曽和伊喜夫 亀井洋佑 金春國直
   地謡 井上貴覚 本田芳樹 本田布由樹
      中村昌弘 政木哲司

能  《田村》 童子/坂上田村麿 武田祥照
     ワキ矢野昌平 ワキツレ村瀬提 村瀬慧 

     アイ野村虎之介
     藤田貴寛 大村華由 柿原孝則

  後見 観世銕之丞 井上裕久
  地謡 観世芳伸 山階彌右衛門 角幸二郎 浅見重好
      関根祥丸 上田宜照 上田彰敏 木月宣行




拝見するのは1年ぶり、2回目となる第6回青翔会。
                  
(いまプログラムを開いて見てみたら、1年前の第3回青翔会は
坂口貴信さんの《小鍛冶》、浅見重好師・角幸二郎さんの《石橋》、
太鼓には観世元伯さんも入っていて、めちゃくちゃ豪華だったんですね。)

                      

今回の青翔会も以前から注目してきた若手2人がシテをされるので、
表当初から楽しみにしていました。



                  
             
 
狂言《仏師》
すっぱ(詐欺師)が仏師と仏像の一人二役を演じて田舎者を騙そうとするが、
最後は見破られ、田舎者に追いかけられるというパターン。


《仏師》には、《六地蔵》とか《金津地蔵》などの類似曲が多いので、
シテが言いよどむところが一箇所あったけれど、
野村太一郎さん、河野佑紀さんともに良かったんじゃないかな。
後見の野村万蔵さんの貫禄というか、存在感が凄かった。
   


                        

              

舞囃子《半蔀》
辰巳大二郎さんは昨年10月の東京青雲会の舞囃子《松風》で、
繊細な中ノ舞が印象的だったシテ方さん。
今回も期待に違わぬ美しい序ノ舞でした。

腰の位置を低くとり、頭の位置がまったくブレない精緻なハコビの平行移動。

中盤に見られた若干の硬さも、終盤になるにつれてなめらかに溶けてゆき、
最後に地謡前での扇を扱う際の「間」の取り方もきれい。
(ここできちんと美しい「間」の取れる方は意外と少ない。)

  
宝生和英さん地頭の地謡もすばらしく
(満次郎さんが大二郎さんに強い「気」ずっとを送っていたように感じた)、
お囃子もよかった。

                
いつも思うのだけれど、小野寺さんの笛は音階が整いすぎてフルートみたい。
佃良太郎さんはやや枯れた掛け声に味わいがあって良い大鼓方さんだ。


岡本はる奈さんはこの日は佃さんの大鼓とも息がぴったり合っていて、
チ・タ音の響きも美しく、拝見するたびに上手くなっていらっしゃると思った。





舞囃子《三輪》
金春流若宗家・憲和さんの舞を拝見するのははじめて。
地謡も含めて、節付けが観世流とはかなり違っていて、
《三輪》ではなく別の曲かと思うほど。
ある意味、新鮮でした。

                         
憲和さんの謡い方・声の質はやはり金春宗家のそれと似ていて独特です。
           
でも、よく通る、のびやかな美しい声で、聴いていて心地良い。

舞というか姿勢そのものがユニークで、背中に重心がいっているような、
能の舞としてはもっと前傾したほうが良いように最初は思ったのですが、
馴れてくるとそれほど気にならない。
                      
肩から腕のラインが角張っているのも、このシテ独自の個性なのか、
それとも金春流の芸風なのか、判断がつきにくい。
(以前、山井綱雄師の舞を拝見した時も、肩のあたりの角張りが気になったので、
金春流の芸風なのでしょうか。)

いずれにしろ、金春憲和さんの魅力は、

若殿様然とした品のある舞姿と艶のある謡声。
この年齢でこれだけ涼しい顔で悠然と舞える人はそういない。


お囃子はとても聴きごたえのある神楽。
笛の栗林さんと金春國直さんがとくによかった。
國直さん、格段に上達されて、打音の響きと撥さばきが美しい。





能《田村》
お調べを聴いていて、あっ、好い笛だなと思い、
プログラムで確認したら藤田貴寛さんでした。 納得です。

武田祥照さんは以前に舞囃子を拝見した時にキラリと光るものがあり、
20代部門で注目しているシテ方さん。

前シテは、どこか神秘的な気配のする童子の面に、
グリーンの水衣とオレンジの縫箔という目にも鮮やかな出立。
若木のような生命力あふれる立ち姿と相まって、舞台に映える。

この日のもう一人の主役であるワキの矢野昌平さんも、
最初は手が少し震えてやや緊張気味だったけれど、
ワキツレの村瀬提さん慧さんが美声で支えて、
見事に演じきっていらっしゃったと思う。
(2人の村瀬さんっててっきり御兄弟かと思っていたけれど違うんですね。
従兄弟同士?)

祥照さんは謡も素晴らしく、とくにワキとの同吟のところ
「春宵一刻価千金、花に清香、月に影」がきれいでした。
ただ、観世流と福王流の節が異なるのか、
最後のほうがちょっと合っていなかったような……。


童子と旅僧が手をとるところは、当時の稚児愛を思わせる
どこか官能的で妖しい雰囲気。

          
前半の舞グセでは地謡のヨワ吟も美しく、
シテの舞姿は、春の甘美ななまめかしさをあらわしたかのよう。

のどけき影は有明の天も花に酔へりや、面白の春べや


見所を夢見心地に酔わせながら、
童子は春風のように田村堂の内陣へと入ってゆく。

(中入)
野村虎之介さんのアイ狂言、よかったです。


後シテは、前場とは打って変わって
平太の面に法被脱下げ・半切・梨子打烏帽子という勇ましい出立。
力強いカケリの所作で、鬼神との戦いの様子を再現する。


柿原孝則さんの大鼓が気迫がこもっていて、かっこいい。
20代初めでこれだけ打てるなんて凄い!
お父様の弘和パパの年齢まであと25年もあるなんてこれからが楽しみです。
崇志グランパも幸せですね。
御子息が2人とも中堅として御活躍なさっていて、
さらにお孫さんがすでに期待の星となっていらっしゃっるなんて。

大村華由さんの小鼓も柿原さんと息が合っていて、
全体的に良いお囃子でした。


そんなわけで、
シテ方が粒ぞろいだったし、
三役もそれぞれにレベルアップされていて、
見ごたえのある公演でした。



                           

2015年3月2日月曜日

片山九郎右衛門の《巴・替装束》~国立能楽堂企画公演・働く貴方に贈る

能《巴 替装束》シテ女/巴御前の霊 片山九郎右衛門 
  ワキ高井松男 ワキツレ則久英志 野口琢弘 
  アイ茂山良暢
  囃子 藤田次郎 古賀裕己 高野彰
  後見 味方玄 分林道治
  地謡 観世喜正 山崎正道 遠藤喜久 角当直隆
     小島英明 佐久間二郎 長島充 野村昌司
                         
                  
行けば深山も麻裳よい、木曽路の旅に出じょうよ~

味わい深い次第でワキ・ワキツレの旅僧一行の登場。


公演記録の映像では何度か拝見したことがあったけれど、
高井松男師(松井高男って言いそうになる)のワキを実際に拝見するのはおそらく初めて。
                                 
この日はじめて気づいたのだけれど、則久英志さんって謡がうまい。
坐する佇まいも端正だし、これから注目したいワキ方さんだ。



アシライ出しの大小鼓が風の音のように響き、幕がそろそろと開いて、
秋草をあしらった白と灰緑の段替りの唐織をまとった謎の女がふわりと現れる。
            
                          
                                                                          
深井の面は憂いを帯び、彼女の胸の内を代弁するかのように、
藤田次郎師の笛が物悲しくも美しい旋律を奏でていく。
(この深井の面は正面から見るとことさら美しく、

どこか増女めいた艶のある趣き。)


シテは常座に入ると「面白や鳰の浦波静かなる」と謡い出すのですが、
なんとなく力が入りすぎていて(声質はやはり観世淳夫さんのそれと似ている)、
この日は少し不調だったのか、あるいは緊張していらっしゃったのでしょうか。
その後も、扇を持つ手が少し震える場面がいくつかあり、
本調子ではなかったように見受けられました。
(もちろん、お舞台自体は不調をまったく感じさせない素晴らしさでした。)
ふだんでも超多忙なのに、この1月半ほど激務と心労続きで

お疲れが相当たまっていらっしゃったのかもしれません。



さて、旅僧が義仲と同じ木曽の出身と聞いたシテは、
この地に祀られている神となった義仲のために読経を僧に勧める。


さるほどに暮れてゆく日も山の端に、入相の鐘の音の浦回の波に響きつつ


目付柱のほうを向いていたシテは、面をあげて西の空(脇正面のほう)を向き、
しばし面を伏せて晩鐘の音に耳を澄まし、遠い過去に思いをはせる。


陰影を帯びた深井の面はすでにシテの身体の一部と化し、
なまめかしく雪のように白い手は美しい女の手にしか見えず、
凛然と立ち上がったその姿は人であって人ではない、

生気を宿した精巧な人形のよう。
もはやこの世には属さない、異界の存在になっていた。


幻のように美しい女は、黄昏にまぎれて色をうしないながら、
揚幕の奥のモノクロームの世界へと消えてゆく。





            
(後場・待謡のあと)
一声の囃子が奏され、藤田次郎師の笛が舞台の空気を清めた後、
「おまーく」の低い声とともに幕がさっと揚がり、後シテが勢いよく登場。

梨打烏帽子に白鉢巻、橙色系唐織の大壺折にクリーム色の紋大口という
あでやかで凛々しい出立。

増髪の面は、目に生き生きとした潤いを宿しつつも、
一般的な増髪よりも物静かで可憐な印象だ。


鎧兜に身を包んでいるのも、すべては愛しい義仲のため、
義仲と少しでも長く一緒にいるためだという
彼女の健気さ、愛情の深さが艶姿そのものから伝わってくる。
こんなにいじらしい女性を愛さない男がいるだろうか。


シテは正中で床几に座り、義仲の最期の様子を旅僧に聞かせる。


このとき、床几を支える後見の味方玄さんの姿が美しく、
大切な恋人の髪を扱うように九郎右衛門さんの蔓帯を整える手付きも印象的だった。
(えっとー、変な意味ではありません。 )


九郎右衛門さんの艶麗な巴、床几を支える端然たる玄さん、
そしてその向こうに地頭・喜正さんの姿が見える。

この日の地謡も素晴らしく、一語一語がクリアではっきりと聞き取れるから、
物語の中へ、そして巴の心の中へすんなりと自然に入っていける。



とくに、静と動が交錯する後場では、戦闘の再現シーンは迫力のあるツヨ吟、
巴の悲しい胸の内は切々としたヨワ吟と、なめらかに切り替わり、
九郎右衛門さんの繊細な動きや絶妙な間合いと
地謡の緩急がぴたりと重なって、
観る者の心をぐわんぐわんに揺さぶってくる。


もう一人の後見、分林さんも隙のない後見ぶりだった。
舞台とシテにつねに全神経を集中させ、
シテに完全に呼吸を合わせて動いていらっしゃった。



シテと後見と地謡が、良い意味での三つ巴のように響き合い、
心地良く張りつめた空気を生み出し、緻密な舞台をつくり上げていた。



巴は重傷を負った義仲に自害を勧め、自らもお供をすると言うが、
お前は女だから生き伸びて、守刀と小袖を木曽に届けるよう義仲に諭され、
命にそむけば主従三世の契りは絶えると言い渡される。


涙に暮れていた巴の前に敵勢が現れ、巴は凛然と応戦する。
このときのシテの長刀さばきはじつに軽やかで嫋やか。
(京舞を肌で感じて育ったシテならではの余人には

まねのできない淑やかさなのでしょうか。)


男性が妙齢の女性を演じ、
さらに男の軍勢を振り払うほどの丈夫ぶりを発揮する男装の麗人を演じる、
という重層的な物真似の構図は言うは易しだけど、
実際に演じて見所を魅了するのは並大抵のことではないはず。


二の松まで敵を追い払ったところで、ふと振り向くと、
義仲はもはや自害し果てていた。
思わず駆け寄り、形見の衣を愛しげに胸に抱き、
「行けども悲しや行きやらぬ」で、遺体のそばから立ち去れずに逡巡する。
義仲の遺体のあるほうを少し間をおいて振り向く時の、姿の美しさ。


九郎右衛門さんの舞台でいちばん好きなのが、この独特の神業的な「間」だ。
すべてが計算され、精妙に伸ばされた美しい「間」。

これほど洗練された「間」を構築できる人は多くはないし、
さらに私が個人的に好みの「間」を生み出せる人はごくわずかだ。


舞台を構成する「間」に対して、
徹底した美意識を持っている人こそ名人だと思う。




悲しい遺言を守ることにした巴は、脇正面よりの目付柱のほうに向いて下居し、
腰紐を解いて小太刀を抜き、烏帽子を脱いで武装を解き、
さらに後見にサポートされながら唐織を脱ぎ、そして……
うーん、あれは何と言うのだろう、摺箔と唐織のあいだに、
箔で模様をあしらった白い小袖(白綾?)をまとっていて、
クリーム色の紋大口と合わせて笠を持った浄衣の旅装となり、
扇を数珠に持ち替えて、
一の松でもう一度遺体を振り返り、合掌。


橋掛りを去っていくその姿には、
ひとり落ちのびることの「うしろめたさの執心」が込められ、
後ろ髪を引かれる思いとともに、
愛する人、大切な人をうしなった後に、
その遺志をついで生きていくことの重みがひしひしと感じられたのだった。

                                  


                    

2015年3月1日日曜日

国立能楽堂企画公演「働く貴方に贈る」~実演解説と狂言《文山立》

              

実演解説・能に見る道具の扱い
                                 
最初に観世喜正さんが切戸口から登場されて、本日の演目をざっと解説したあと、
味方玄さんが登場し、能《巴》の見どころとなる長刀や扇の扱いを実演。


巴が床几に座って仕方話をしながら足拍子を踏み、扇で右脇をバンバン打つ型をするのは、
(木曽義仲が)泥田に足をとられた馬の手綱を握って、鞭を振るいながら
懸命に抜け出そうとする様子を再現しているとのこと。


また、橋掛りのほうから攻めてくる敵の軍勢に応戦するため、
巴が観客(正面席)に背中を向けて、長刀を振るいながら橋掛りを進み、
敵を追い散らす場面も味方さんが実演してくださいました。

(角当直隆さんと山崎正道さんが地謡に入り、
中森健之介さん(かな?)が後見をされていました。)


なるほどー。
こんなふうに事前に実演を混じえて解説してくださると、
初めて観る曲でも分かりやすいですね。


私の大好きなシテ方さんたちだったので、よけいに楽しかった!


喜正さんも玄さんもトークが上手く、まだまだ話し足りないようでしたが、
時間が押していたらしく、最後は巻き巻き。


実演のシテ方さんが切戸口をくぐり終えるか終えないうちに、
いきなり狂言方の声がして、すでに橋掛りを歩いてきているのにはびっくり!
(国立の担当スタッフにせかされた?)




狂言・大蔵流《文山立》

乱能《土蜘蛛》の頼光とワキだったお二人。
(乱能のインパクトが強いので、当分は乱能の時のイメージと重なってしまいます(笑))


《文山立》は果し合いをしようとする2人の山賊が、結局は死ぬのが怖くて仲直りをする
他愛のないお話なのですが、臆病なところや不甲斐のなさを互いに認め合い
最後は手をつないで仲良く帰っていく、ほのぼのとした狂言です。


残酷で非道な暴力が国内外で横行している今日この頃、
おそらく戦乱に明け暮れた時代を生きた昔の人も、
みっともなくとも平和な生き方を望んだのかもしれない
などと思ったことでした。









国立能楽堂企画公演・働く貴方に贈る Part1

2015年2月27日金曜日 19時開演


実演解説・能に見る道具の扱い 観世喜正&味方玄 


狂言《文山立》 シテ大藏基誠 アド善竹富太郎


能《巴 替装束》シテ女/巴御前の霊 片山九郎右衛門 

  ワキ高井松男 ワキツレ則久英志 野口琢弘 アイ茂山良暢
  囃子 藤田次郎 古賀裕己 高野彰
  後見 味方玄 分林道治
  地謡 観世喜正 山崎正道 遠藤喜久 角当直隆
     小島英明 佐久間二郎 長島充 野村昌司





お能を見るようになって初めて深い感動を味わったのが
去年5月の片山九郎右衛門さんの御舞台《邯鄲・夢中酔舞》。

以来、九郎右衛門さんおシテの舞台(舞囃子以外)を
東京で拝見する機会がなくて、この日をずっと、ずっと、心待ちにしていました。


でも、舞台が始まったらあっという間。
美しい時は一炊の夢のように瞬く間に過ぎてしまう


もう一昨日のことだけれど、今でもぼーっとなって、余韻に浸りきっています。


あれほど待ち望んでいたものが、もう終わってしまったのかと思うと、
なんだか気が抜けてしまって……。


脳内録画を巻き戻すように、明日から少しずつ感想を書いていきたいと思います。



追記1
九郎右衛門さん、国立能楽堂であれほど素晴らしい御舞台を勤められた後、
(おそらく新幹線の最終便には間に合わないので)翌日にとんぼ返りで京都に戻り、
観世会館で《羅生門》のシテを演じられたのですね。
九郎右衛門さんの《羅生門》、観たかったなー。
東京でも、もっと九郎右衛門さんの公演があればいいのに。
個人の会とかないのかしら。


追記2
Eテレ4月26日の「古典芸能への招待」で九郎右衛門さんおシテの《吉野琴》が
放送されるとのこと!
神さま、ありがとうございます!!
今までは片山清司時代に撮影されたDVD「第11回日本伝統文化振興財団賞受賞」
を見て、御舞台を拝見できない悲しさを紛らわせていたのですが、
(このDVDは「三役ともに素晴らしく、とくに石橋が白眉! 超オススメです!)
またひとつ、永久保存版が増えそうで、うれしい!!