2015年3月2日月曜日

片山九郎右衛門の《巴・替装束》~国立能楽堂企画公演・働く貴方に贈る

能《巴 替装束》シテ女/巴御前の霊 片山九郎右衛門 
  ワキ高井松男 ワキツレ則久英志 野口琢弘 
  アイ茂山良暢
  囃子 藤田次郎 古賀裕己 高野彰
  後見 味方玄 分林道治
  地謡 観世喜正 山崎正道 遠藤喜久 角当直隆
     小島英明 佐久間二郎 長島充 野村昌司
                         
                  
行けば深山も麻裳よい、木曽路の旅に出じょうよ~

味わい深い次第でワキ・ワキツレの旅僧一行の登場。


公演記録の映像では何度か拝見したことがあったけれど、
高井松男師(松井高男って言いそうになる)のワキを実際に拝見するのはおそらく初めて。
                                 
この日はじめて気づいたのだけれど、則久英志さんって謡がうまい。
坐する佇まいも端正だし、これから注目したいワキ方さんだ。



アシライ出しの大小鼓が風の音のように響き、幕がそろそろと開いて、
秋草をあしらった白と灰緑の段替りの唐織をまとった謎の女がふわりと現れる。
            
                          
                                                                          
深井の面は憂いを帯び、彼女の胸の内を代弁するかのように、
藤田次郎師の笛が物悲しくも美しい旋律を奏でていく。
(この深井の面は正面から見るとことさら美しく、

どこか増女めいた艶のある趣き。)


シテは常座に入ると「面白や鳰の浦波静かなる」と謡い出すのですが、
なんとなく力が入りすぎていて(声質はやはり観世淳夫さんのそれと似ている)、
この日は少し不調だったのか、あるいは緊張していらっしゃったのでしょうか。
その後も、扇を持つ手が少し震える場面がいくつかあり、
本調子ではなかったように見受けられました。
(もちろん、お舞台自体は不調をまったく感じさせない素晴らしさでした。)
ふだんでも超多忙なのに、この1月半ほど激務と心労続きで

お疲れが相当たまっていらっしゃったのかもしれません。



さて、旅僧が義仲と同じ木曽の出身と聞いたシテは、
この地に祀られている神となった義仲のために読経を僧に勧める。


さるほどに暮れてゆく日も山の端に、入相の鐘の音の浦回の波に響きつつ


目付柱のほうを向いていたシテは、面をあげて西の空(脇正面のほう)を向き、
しばし面を伏せて晩鐘の音に耳を澄まし、遠い過去に思いをはせる。


陰影を帯びた深井の面はすでにシテの身体の一部と化し、
なまめかしく雪のように白い手は美しい女の手にしか見えず、
凛然と立ち上がったその姿は人であって人ではない、

生気を宿した精巧な人形のよう。
もはやこの世には属さない、異界の存在になっていた。


幻のように美しい女は、黄昏にまぎれて色をうしないながら、
揚幕の奥のモノクロームの世界へと消えてゆく。





            
(後場・待謡のあと)
一声の囃子が奏され、藤田次郎師の笛が舞台の空気を清めた後、
「おまーく」の低い声とともに幕がさっと揚がり、後シテが勢いよく登場。

梨打烏帽子に白鉢巻、橙色系唐織の大壺折にクリーム色の紋大口という
あでやかで凛々しい出立。

増髪の面は、目に生き生きとした潤いを宿しつつも、
一般的な増髪よりも物静かで可憐な印象だ。


鎧兜に身を包んでいるのも、すべては愛しい義仲のため、
義仲と少しでも長く一緒にいるためだという
彼女の健気さ、愛情の深さが艶姿そのものから伝わってくる。
こんなにいじらしい女性を愛さない男がいるだろうか。


シテは正中で床几に座り、義仲の最期の様子を旅僧に聞かせる。


このとき、床几を支える後見の味方玄さんの姿が美しく、
大切な恋人の髪を扱うように九郎右衛門さんの蔓帯を整える手付きも印象的だった。
(えっとー、変な意味ではありません。 )


九郎右衛門さんの艶麗な巴、床几を支える端然たる玄さん、
そしてその向こうに地頭・喜正さんの姿が見える。

この日の地謡も素晴らしく、一語一語がクリアではっきりと聞き取れるから、
物語の中へ、そして巴の心の中へすんなりと自然に入っていける。



とくに、静と動が交錯する後場では、戦闘の再現シーンは迫力のあるツヨ吟、
巴の悲しい胸の内は切々としたヨワ吟と、なめらかに切り替わり、
九郎右衛門さんの繊細な動きや絶妙な間合いと
地謡の緩急がぴたりと重なって、
観る者の心をぐわんぐわんに揺さぶってくる。


もう一人の後見、分林さんも隙のない後見ぶりだった。
舞台とシテにつねに全神経を集中させ、
シテに完全に呼吸を合わせて動いていらっしゃった。



シテと後見と地謡が、良い意味での三つ巴のように響き合い、
心地良く張りつめた空気を生み出し、緻密な舞台をつくり上げていた。



巴は重傷を負った義仲に自害を勧め、自らもお供をすると言うが、
お前は女だから生き伸びて、守刀と小袖を木曽に届けるよう義仲に諭され、
命にそむけば主従三世の契りは絶えると言い渡される。


涙に暮れていた巴の前に敵勢が現れ、巴は凛然と応戦する。
このときのシテの長刀さばきはじつに軽やかで嫋やか。
(京舞を肌で感じて育ったシテならではの余人には

まねのできない淑やかさなのでしょうか。)


男性が妙齢の女性を演じ、
さらに男の軍勢を振り払うほどの丈夫ぶりを発揮する男装の麗人を演じる、
という重層的な物真似の構図は言うは易しだけど、
実際に演じて見所を魅了するのは並大抵のことではないはず。


二の松まで敵を追い払ったところで、ふと振り向くと、
義仲はもはや自害し果てていた。
思わず駆け寄り、形見の衣を愛しげに胸に抱き、
「行けども悲しや行きやらぬ」で、遺体のそばから立ち去れずに逡巡する。
義仲の遺体のあるほうを少し間をおいて振り向く時の、姿の美しさ。


九郎右衛門さんの舞台でいちばん好きなのが、この独特の神業的な「間」だ。
すべてが計算され、精妙に伸ばされた美しい「間」。

これほど洗練された「間」を構築できる人は多くはないし、
さらに私が個人的に好みの「間」を生み出せる人はごくわずかだ。


舞台を構成する「間」に対して、
徹底した美意識を持っている人こそ名人だと思う。




悲しい遺言を守ることにした巴は、脇正面よりの目付柱のほうに向いて下居し、
腰紐を解いて小太刀を抜き、烏帽子を脱いで武装を解き、
さらに後見にサポートされながら唐織を脱ぎ、そして……
うーん、あれは何と言うのだろう、摺箔と唐織のあいだに、
箔で模様をあしらった白い小袖(白綾?)をまとっていて、
クリーム色の紋大口と合わせて笠を持った浄衣の旅装となり、
扇を数珠に持ち替えて、
一の松でもう一度遺体を振り返り、合掌。


橋掛りを去っていくその姿には、
ひとり落ちのびることの「うしろめたさの執心」が込められ、
後ろ髪を引かれる思いとともに、
愛する人、大切な人をうしなった後に、
その遺志をついで生きていくことの重みがひしひしと感じられたのだった。

                                  


                    

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