2015年6月5日金曜日

東京青雲会~《来殿》

201563日(水)14時始  宝生能楽堂

素謡 《放下僧》 シテ佐野弘宜 ツレ朝倉大輔  ワキ田崎甫
    地謡 佐野玄宜 川瀬隆士 今井基



仕舞 《難波》  金森良充
   《兼平》  辰巳和磨
    地謡 藪克徳 辰巳大二郎 金野泰大 金井賢郎

舞囃子《養老》  内田朝陽
  小野寺竜一 住駒充彦 原岡一之 小寺真佐人

舞囃子《富士太鼓》  金森隆晋
  小野寺竜一 住駒充彦 原岡一之
  地謡 當山淳司 金森良充 田崎甫
     朝倉大輔 藤井秋雅

仕舞 《半蔀 クセ》  武田伊佐
  地謡 内田朝陽 土屋周子 関直美 葛野りさ

能《来殿》  シテ木谷哲也   ワキ則久英志  
  ワキツレ舘田善博 野口能弘 アイ善竹大二郎
  小野寺竜一 住駒充彦 原岡一之 小寺真佐人
  地謡 内藤飛能 當山淳司 辰巳大二郎 金野泰大
     川瀬隆士 金井賢郎 藤井秋雅  上野能寛
  後見 佐野玄宜 辰巳和磨



今回はシテ・ツレ・三役はもとより、後見・地謡もすべて若手による公演。
入梅したような雨模様の日でしたが、能楽堂の中は青い雲の広がる爽やかさ。


素謡 《放下僧》
 シテ(佐野弘己宜さん)の姿が見えないと思ったら、ツレの後ろ、後列地頭の隣にいらっしゃったのでちょっとびっくり。
地謡の今井基さんがなぜか前列中央。 

朝倉大輔さんが終始強い謡で、親の仇打ちに一心不乱に邁進する小次郎の一途で思いつめた感情を表現されていた。

敵役の田崎甫さんはよく通る声で、安定した美しい謡。
シテの佐野弘宜さんは比較的高い声で、磨けば美声になる可能性大。

地謡はまとまっていたけれど、悟りの境地を自然の諸相になぞらえたクセの部分はやや単調で、もう少し情趣豊かに謡ったほうがよかったかも。
         
とはいえ、「筆に書くとも及ばじ」からは朗々として美しく、「代々を重ねて」からクライマックスの仇討のシテツレ同吟までは臨場感のある盛り上がりで、引き込まれていきました。

全般的に宝生流の若手の謡は、詞章が聞き取りやすく、物語の中に入りやすい。


仕舞
《難波》の金森良充さん、丁寧に舞ってらっしゃいました。

《兼平》の辰巳和麿さんは、小柄な身体から発散される気とパワーが凄い!
緩急のついたメリハリのある舞姿は魅力的で、ふだんは可愛い顔立ちなんだけど、舞になると表情厳しく、満次郎さんに似てくる。


舞囃子《養老》 のシテは仕舞《半蔀》のシテと同様、きれいで折り目正しい。 


舞囃子《富士太鼓》の金森隆晋さんが今回の青雲会ではいちばん印象的でした。
繊細優美な舞と透き通った謡。
少し肩のあたりが角張っていて緊張されているのかなと思ったら、首筋が汗でキラキラと光っていて、そのひたむきさに感動。
この方の鬘物も見てみたい。

ところで、笛の小野寺竜一さんは、きっちり精密に、唱歌どおりの笛を吹く方で、音があまりにも整っていてフルートのように感じてしまう。
私はうねりのある能管らしい不安定な音色が好きなので、整い過ぎた音を少しずつ崩していかれるといいのになー、というのが個人的希望。




能《来殿》
《雷電》ではなく、宝生流独自の《来殿》を拝見するのは初めてで、楽しみにしていました。

本来、宝生流にも観世流と同様の《雷電》という曲があったそうですが、菅原道真の後裔を称していた最大パトロン・前田家を憚って、15代宝生友干が改作した(道真の霊が雷神となって狼藉を働く部分をカットし、御代を寿ぐ舞を舞うという後場に仕立てた)のが、現在の《来殿》。
4年前に、当代家元によって復曲されたのが《雷電》とのことです(これは和英さんのシテでNHKでも放送されました)。

前場は、通常の《雷電》とほとんど同じで、面は怪士系のもの。

詞章も前場では《雷電》とそれほど変更はないけれど、顕著な違いは「死してのち梵天帝釈の憐れを蒙り、鳴雷となり内裏に飛び入り、われに憂かりし雲客を蹴殺すべし云々」のくだり。
《雷電》のこの周辺の暴力的な詞章部分がカットされて、「我無実の罪を蒙る事……いふより早く色変わり」という詞章に差し替えられている。


ちなみに、田中貴子著『あやかし考』によると、「蹴殺す」には「神による天罰・殺人」や「崇り殺すこと」という意味があり、さらにそこには竜のイメージが絡んでおり、竜の足の鋭い爪のイメージも重ね合わされているとのこと。

夢ねこが思うに、黒雲の中から雨を降らす龍のイメージと雷神のイメージがオーバーラップすることもあり、《来殿》では、菅原道真→雷神のイメージへと移行させないためにも「蹴殺す」という言葉を取り除く必要があったのでしょう。

ただし、《来殿》の前場には、
道真の霊が供物の石榴を噛み砕いて妻戸にくわっと吐きかけると、
石榴が火炎となって燃え上がった、というドラマティックな場面がそのまま残されており、
シテもキレのある型と所作で道真の怒りと怨みの行為を演じきり、
真っ赤な石榴が飛び散るさまや燃え上がる炎が見えるようでした。

(この石榴をくわっと吐きかけるところを造形化したのが《雷電》の後場でよく使われる大飛出の面。いろいろ考えると、やはり《雷電》の後場は前場とのつながりが自然なのに対し、《来殿》の後場は取ってつけた感があるのは否めない。)



そんなわけで、《来殿》の後シテは
《雷電》の後場の怒れる雷神のような恐ろしく猛々しい面・装束ではなく、
《融》のような初冠に狩衣・指貫に(おそらく)中将の面をつけて出端の囃子に乗って登場。

道真の霊にはすでに大富天神の神号が授けられていて、前場であれほど怒っていた道真もすっかりご満悦。
「道ある御代の有り難さよ」と早舞を舞う(ここも《融》によく似てる)。
どうして盤渉早舞なのかなと思ったら、道真=雨を降らす雷神のイメージを詞章では語らず、囃子によって暗示しているのですね。 心にくい演出。

シテは小顔なので中将の面にすっぽり覆われ、とてもリアルに見えた。
(面から顎を出すことにこだわる人もいるけれど、私はどちらかというと顎が見えないほうが好き。脳内修正にエネルギーを費やさずにすむし。)

地謡もとてもよかったし、お囃子もシテの一挙手一投足に呼吸を合わせて演奏されていたように思えた。







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