2015年10月8日木曜日

観世会荒磯能~《安達原》

2015年10月8日(木)  13時~16時半    梅若能楽学院会館

観世会荒磯能~《班女》からのつづき

能 《安達原》 シテ 角幸二郎 
    ワキ 野口能弘 アイ 前田晃一→三宅右矩
       囃子 成田寛人 田邊恭資 亀井洋佑 梶谷英樹
後見 武田宗和 坂井音晴
     地謡 岡久広 小早川修 藤波重孝 武田友志
        清水義也 武田文志 金子聡哉 関根祥丸  
        


シテの角幸二郎さんはお父様譲りのいかにも正統派といった端正な芸風をもつ人。
仕舞や舞囃子では何度も拝見しているけれど、能のシテではこれが初めて。

安達原は『智恵子抄』で有名な安達太良山山麓を指すという。
祐慶阿闍梨一行が一夜の宿を求めて訪れた粗末な庵。

大小前に置かれた萩小屋の作り物の引廻が外され、現れたのは色香の褪せた中年女性。
くすんだ深井の面には辛酸をなめ尽くしたような疲労と悲しみが刻まれ、ほどよく退色した緑灰いろの唐織には秋草花がぎっしりと織り込まれている。


げに侘び人の習いほど悲しきものはよもあらじ。
かかる浮世に秋の来て、朝けの風は身にしめども
胸を休むることもなく、昨日も空しく暮れぬれば
まどろむ夜半ぞ命なる、あら定めなの生涯やな


なんて悲しく、孤独な響きの謡なんだろう。
幸二郎師はたぶん40歳くらいだと思うけれど、この《安達原》では良い意味で若さが抜け、老いに蝕まれつつある女性のなかに堆積した人生の澱や得体の知れない闇のようなものを漂わせていていた。


シテの女主人が萩小屋から出ると、萩小屋は主の閨に変わり、阿闍梨一行は庵に迎え入れられた形となる。
一夜の宿の礼を述べた阿闍梨は、ふと見慣れないものに目を留める。
女主人は、これは枠桛輪(わくかせわ)だと説明し、阿闍梨の求めに応じて、糸車をまわす。


およそ人間のあだなることを案ずるに
人さらに若きことなし、ついには老いとなるものを
かほどはかなき夢の世をなどや厭はざる我ながら
あだなる心こそ恨みてもかひなかりけれ


何ともいえない情趣のある糸車を回す場面。
シテは時おり月に目をやりながら、遠い過去に思いをはせる。
若く、華やかだった日々。
信じていた人の裏切りの数々。
何度も傷つき、怨み、厭い、ついには世を捨てて、ひとり人外境に籠ったこと。
そして……。

シテは糸車を回しながら、何度か阿闍梨と向き合い、目を交わす。

もう一度、人を信じていいのではないか。
魔境に入った自分でも人の心を取り戻し、他人の誠実を信じることができるのではないか。

阿闍梨を目を交わしながら、シテは自分が人間らしい心を取り戻しつつあることを感じたに違いない。
だからこそ阿闍梨たちを温かくもてなそうと、ひとりで山に入り、薪を取ってくると言ったのではないのか。

すぐに帰るからと、立ちあがったシテは、「や、いかに申し候」と振り返り、阿闍梨に言う。

妾が帰らんまでこの閨の内ばし御覧じ候ふな

この「御覧じ候ふな」のあたりから、妖気がシテの全身から立ち昇り、語尾の「な」の響きには人間らしさが失われ、鬼の気配が感じられた。

人間の心を取り戻しつつあった鬼女の、どうしても秘密にしておきたい暗部。
その闇の部分を押し込めようとした刹那から、闇はマグマのように沸々と煮えたぎり、噴出の時を待っている。

そうした水面下で蠢く危険な状況を、シテが発した「御覧じ候ふな」の語尾は示していた。

(中入)

間狂言は、三宅右矩さんが代演。
これがとってもよかった!
「僕は(閨を)のぞくなと言われてないから、のぞいちゃいます!」みたいな感じで、天真爛漫なやんちゃぶり。
普段は間狂言でそんなに笑わないわたしでも爆笑してしまいました。
この方のテンポとわたしの笑いのツボが合うみたい。



(後場)
大好きな早笛に乗って後シテの鬼女登場。
般若の面は蛇に近い、邪悪さを醸した鬼面。
ほんとうは仏道に帰依したかった鬼女の悔恨を物語るように、装束には法輪がちりばめられている。
今度こそ、と思って信じた相手に裏切られた怒りはどれほどのものだったのだろう。
無神経な善意(善人)ほど厄介で恐ろしいものはない。

ここからイノリで、鬼女VS阿闍梨一行の激しいバトル。
田邊さんの小鼓が特に良かった。

わりとあっけなく鬼女は調伏され、最後は橋掛りで飛び返りで幕入り。


能二番ともじっくり楽しめた大満足の舞台でした。



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