2016年6月6日月曜日

第八回 燦ノ会 《桜川》

2016年6月4日(土)14時~17時40分  喜多能楽堂
燦ノ会 《高砂》 狂言《清水》からのつづき

燦ノ会ポスター
能《桜川》シテ桜子の母 佐々木多門
                子方・桜子  大島伊織 
     ワキ磯部寺の住僧 大日方寛 従僧 野口能弘 野口琢弘
     人商人 舘田善博
     栗林祐輔 森澤勇司 安福光雄
     後見 友枝昭世 粟谷浩之
     地謡 香川靖嗣 大村定 中村邦生 長島茂
            友枝雄人 内田成信 友枝真也 谷友規



佐々木多門さんは昨年の能楽会・新会員披露会でキラリと光っていたシテ方さん。
この日の《桜川》も多門さんならではの、どこか温かみのある美しい舞台でした。


前場】
まずは、筑紫日向で桜子を買い取った東国の人商人(舘田善博)が桜子から託された手紙を、桜子の母に渡しにゆく。

幕から登場したシテは青灰と金茶段替の渋い唐織熨斗付に上品な曲見。

夫の忘れ形見で最愛の息子からの文を読み終えたシテは、
「それほど名残惜しいのなら、どうして母と一緒に暮さずに、別れてしまうのか」と、
開いたままの文を左手に持ち、しばし放心したように橋掛りに佇む。

母の苦労を慮って、自らを人商人に売ったわが子。
それを知った母の複雑な心境がその所作に凝縮されているようでした。


(男の子が「桜子」と名付けられたのは木花咲耶姫の氏子だからというのもあるけれど、男児の死亡率が高かった時代に「魔除けとして」に女の子に見せかけて育てたという風習の表われでもあるのでしょう。西洋でもよく男児に女児の恰好をさせていたし。)



シテは陰鬱な足取りで橋掛りを進み舞台に入って、正中にて「どうか桜子を引き留めてください」と木花咲耶姫に両手を合わせて祈りを捧げる。
こういう真摯で敬虔な心情をあらわす型の表現力が、この方の持ち味だと思う。
この表現力のおかげで、観る者が主人公の母の気持ちにスーッと入っていける。


悲しみに打ちひしがれた母親は故郷をあとにして、わが子を探しに彷徨い出てゆく。



ここの中入アシライもよかった!
大小鼓・笛ともに好い組み合わせ。
笛の栗林さん、ほんと、聴くたびに上手くなりはる。
シテの救いのない深い悲しみや喪失感を代弁するような切々とした音色。
安福光雄さんも、大鼓方四十代部門ではいちばん好きな囃子方さん。
表立ってリードするのではなく、囃子全体をしっかり支える堅実な演奏で舞台を盛りたてる。
(掛け声のバランスも心得ていて、気迫がこもっていながらも謡の邪魔をしない。)




後場】
舞台は三年後の常陸の国・桜川。
磯部寺の僧たちが稚児を連れて花見をしていると、一人の女物狂いがやってくる。


一声の囃子で登場した後シテ。
清流を思わせる薄浅葱色の水衣に、笹柄の濃紺の縫箔。
そして桜川そのものをあらわしたような鮮やかな青地に桜模様の鬘帯。
肩に担った桜色のすくい網には花びらが散らされていて、全体的に華やかな印象。



面は前シテと同じ曲見だけど、この面は変幻自在の女面で、
シテの動きや光の加減によって、可憐な少女のように見える時もあれば、
妖艶な美女にも、憔悴しきった中年女性にも、
何かに憑かれた物狂おしい女にも見え、
この女性が歩んできた波乱に満ちた人生の片鱗を垣間見せるような表情を浮かべる。


桜子の母と同化したシテの面の扱いを通して、
観客はこの母の過酷な半生と三年に及ぶ長い旅路に思いをはせる。
ときおり何かを訴えかけるようなまなざしを見せるのが印象深い。




【カケリ】
桜が散る風情に刺激されて、シテは焦燥感に駆られたようにカケリに入ってゆく。


カケリの後、紀貫之や藤原基家の和歌が散りばめられた美しい詞章のなかで、
シテはこれまでの経緯をワキの僧に語る。

その間、この箇所の大半を大小前で不動のまま立ち、比較的冷静な正気の状態を表現する。
わずかな脈動でもその振動が網に伝わり、かすかに揺れるすくい網が正気の母の心の奥底に渦巻く不安定な情緒を表わしているかのよう。



イロエ】
そこから、「桜か」「雪か」「波か」「花かと」と、シテ・ワキの掛け合いに入り、シテの気持ちも次第に高揚して、「雪を受けたる袂かな」で、イロエへ。

すくい網から扇に持ち替えたシテは高まる興奮を秘めたまま、舞台を一巡しながら狂いの要素をやや抑えた舞を舞う。




【舞グセ】
イロエのあと、いったんグッと鎮めて、シテは再び大小前で不動の姿勢となり(ここで後見の友枝さんがシテの装束を整えたついでに舞台の塵をさりげなく拾ったのが印象的だった)、地謡が「岸花紅に水を照らし、洞樹緑に風を含む。山花開けて錦に似たり、澗水たたへて藍のごとし」と、漢詩を引用した色彩豊かな風景を描き出す。


この「静」の状態から、舞グセとなり、古今集の序や歌を織り込んだ謡の流れるなか、シテはしっとりとした静かな舞を魅せてゆく。


散る花の儚さにわが身を重ねた、露の煌きのようせつなく甘美な舞。



そこからしだいに母性を強め、「木花咲耶姫の御神木の花なれば、風もよぎて吹き、水も影を濁すな」で、扇面に水鏡の反射を映すように、開いた扇を下向きにかざす。


さらに「花によるべの水せきとめて」で、開いた扇をグッと胸の前にあてる。
この水流を堰き止めるような型には、散りゆく花に桜子の面影を重ねて、わが子を引き留めようとする母の一念がこもっていて、観る者の胸を打つ。



【網ノ段】
散りゆく花に、心をいっそう昂ぶらせたシテは扇からすくい網に持ち替えて、曲中最大の見どころの網ノ段を舞う。
これはほんとうに素晴らしかった!


観世流ではイロエの前の地謡「浮かめ浮かめ」で、網をもったまま両手を上げて足拍子を踏む特徴的な型をするのですが、喜多流では網ノ段の「みよし野の」で、両手を上げ、すくい網を後ろにまわして足拍子を踏みます。


シテの面の扱いや網で掬う所作がじつに巧みで、曲見の面は紅潮したように生気を帯び、川底を泳ぐ魚の群れや水の流れ、雪のようにはらはらと水面に散る桜の花びら、飛び散る水しぶきを感じさせ、夢中になって花を掬う母の渇望や衝動がダイレクトに伝わってくる。
シテも無心で舞っているように見えた。


だが、ここで母はハッと我に返り
掬い集めたものは木々の花で、自分が本当に求めるわが子ではないという現実を正視し、
呆然と網を落としてガクリと安座し、モロジオリ。


そこで、桜子が名乗り出て、母子は感動の再会を果たす。
(長時間座りっぱなしで大変だった子方さんもホッとした表情。)


シテは驚いたように立ち上がり、両ユウケンで歓喜の心をあらわし、
大事そうに、愛おしそうに、わが子の肩に手を載せる。
ほんとうはギュッと思いっきり抱きしめたいような、熱い母性を感じさせる再会のシーン。
わたしもじんわり目に涙。


この日の公演は能・狂言とも、なんだかとっても幸せな気分になる舞台でした!






0 件のコメント:

コメントを投稿