2017年1月10日火曜日

クラーナハ展 ~ 五〇〇年後の誘惑

2017年1月某日           国立西洋美術館


(ルーベンスやレンブラントのように)色彩の交響のなかに裸体を解き放つのではなく、線と形体のなかに裸体を冷たく凝固させる。裸体をして、われわれの視線に撫でまわされるための、一個の陶器のごときオブジェと化せしめる。これがクラナッハ特有のヌードだ。
                           ――澁澤龍彦 『裸婦の中の裸婦』





クラナッハの裸体画でまず思い浮かぶのは、
なで肩に小ぶりな胸をもつ華奢な上半身と、
ぽっこりつき出た下腹部と豊かな太股の、成熟した下半身、
そして、なよやかな柳腰と、すらりと伸びた長い手足という、
裸体の美化と生々しさの両方をあわせ持つアンバランスな魅力だ――。


彼が描く、日本女性の体型を理想化したようなヌードは、
雪のように白くなめらかな肌に、豪華な宝飾品を身につけ、
陰部を隠すのではなくそこへ視線を誘うようにコケティッシュに薄絹をまとい、
高貴かつ優雅でありながら、
女の体臭を濃厚に感じさせる淫靡なエロティシズムを帯びている。


さらに裸体のみならず、その背景にも性的な暗喩がちりばめられており、
たとえば《泉のニンフ》の、裸で寝そべるニンフの背後には
一目でそれとわかるような泉の湧き出る洞窟が、
露わになった乳房に剣を突き立てようとする《ルクレティア》の背後には
不自然に突き出た不自然な形の崖が、
それぞれ陰と陽の器の象徴として描かれている。


とはいえ、これらの裸体画は
クラナッハ個人がとりわけ好んで描いたわけではなく、
(もちろん、彼自身も楽しんで描いたのだろうが)
王侯貴族の愛好する閨房画として制作したものが爆発的にヒットして、
彼の工房で大量生産されたものと思われる。


彼の裸体画が革新的なのは、
前述のように、イタリア的な黄金比に支配された理想の裸体から逸脱した、
生身の裸体のもつ「崩れ」や「不均衡性」を女体の魅力として描きつつ、
それをマニエリスム的に過度に引き伸ばされた優雅な手足と融合させた点にあり、
さらには、背景を黒にすることで裸体美を際立たせたことにある。

実際、背景をことごとく埋め尽くしたデューラーの版画と比べれば、
クラナッハの手がけた版画には、いかに余白が多いのかがよくわかる。

(同時代のデューラーとクラナッハの版画の違いがよく分かるように展示されていた。
クラナッハの版画には、デューラー作品から構図を借用したものが多いが、
背景が削ぎ落とされ、有翼の蛇が署名として入れられているのが特徴。
版画作品だけで比較すると、圧倒的にデューラーに軍配が上がる。)


「余白の美」の効用にいち早く気づいたクラナッハは、
背景を埋めつくさないほうが大量生産にも向いていることもあり、
黒い背景を裸体画に取り入れたのかもしれない。


彼は良い意味で、作品によって自己表現をする芸術家というよりも
時代と顧客のニーズを敏感に察知し、それを形に表す絵描きであり、
工房経営者であり、超一流の職人だったと思う。


それを端的にあらわすのが「宗教改革の〈顔〉たち」のコーナーに
展示されたルターの二枚の肖像画だ。

「95ケ条の論題」発表の3年後に描かれた《アウグスティヌス修道会士としてのマルティン・ルター》は、いかにも宗教改革に闘志を燃やす修道士といった厳格な顔つきをしており、腐敗したローマ・カトリックへの激しい怒りを世にアピールする宗教改革のプロパガンダ的肖像といえる。

その3年後に制作された《マルティン・ルター》は、ドイツに吹き荒れた農民戦争の嵐を鎮めるべく、民衆に平和的抵抗を訴えたルターの穏健な姿を描いている。

プロテスタントというイデオロギーの推進に一役買ったのが、クラナッハの描くルターの肖像画だった。


今回、わたしの好きなウェヌスとアモール(ヴィーナスとキューピッド)シリーズが一枚も来日しなかったのは残念だったけれど、チラシや看板画にもなっている《ホロフェルネスの首を持つユディト》↓に出会えたのは幸せだった。

クラナッハの描くユディトは、悪鬼を退治する文殊菩薩のように、血塗られた剣を勇ましく、厳かに持ち、氷のように冷たい美を湛えている。

いっぽう首を斬られた猛者はマゾヒストのごとく、それが彼の本望だったとでもいうように恍惚とした表情を浮かべている。

気品と妖しさと毒をあわせもつ、究極のファムファタル像――。


《ホロフェルネスの首を持つユディト》、1525-30年、油彩、板



0 件のコメント:

コメントを投稿