2018年1月31日水曜日

素謡《復活》~能と土岐善麿《夢殿》を観る

2018年1月31日(水) 14時~17時  喜多能楽堂


第一部 ごあいさつ
  「聖徳太子と親鸞」 三田誠広
  「土岐善麿と喜多実の新作能創作活動」岩城賢太郎
  「英語能創作者からみた土岐善麿の新作能」リチャード・エマート

第二部 演目解説 三浦裕子
素謡《復活》中入後 (前シテ:マグダラのマリア)
   後シテ/イエス 金子敬一郎 ペテロ 佐々木多門
         み弟子 佐藤陽 狩野祐一
         地謡 金子敬一郎 佐々木多門 大島輝久 友枝真也
      塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽 狩野祐一

半能《夢殿》シテ老人/聖徳太子 大村定
   ワキ僧 舘田善博
   藤田貴寛 森澤勇司 柿原光博 大川典良
   後見 塩津哲生 粟谷浩之
   地謡 永島茂 友枝雄人 内田成信 粟谷充雄
      大島輝久 友枝真也 塩津圭介 佐藤寛泰



今年で三度目となる土岐善麿公開講座&新作能公演。
このような貴重な公演・講座を、ひろく一般に向けて毎年開催するのはどれほど大変なことだろう。関係者・演者の方々のご苦労がしのばれます。


新作能とはいえ「喜多流の財産」といわれるほど、土岐善麿と喜多実による曲の完成度はきわめて高い。

国文学の知の宝庫とされる土岐善麿が手がえた詞章は、室町期のそれと比べても遜色ないほど格調高く、良い意味で綴れ錦のように多様な引用が織り込まれ、色とりどりのイメージを喚起する。
曲の構成も緻密かつ簡潔で、舞の見どころ、囃子の聴かせどころが要所に盛り込まれ、クライマックスに向かって展開していく。



【素謡《復活》中入後】
土岐善麿新作能には、《使徒パウロ》、《復活》、《ユダ》というキリスト教三部作があるらしく(三作目の《ユダ》は作曲されず)、《復活》は《使徒パウロ》につづく二作目だったという。

能《復活》はタイトル通り、イエスの復活を題材にしたもの。
キリスト教をベースにした新作能といえば、多田富雄作《長崎の聖母》があるけれど、それよりもはるか以前に創られていたことから、当時としてはいかに革新的だったかがうかがえる。


〈幻の前場〉
この日カットされた前場は、マグダラのマリアが前シテ。
ストーリーは、捕えられたイエスを見捨てて三度否認したペテロ(ツレ)が、鶏の声に慄いていると、マグダラのマリア(前シテ)が現れて、イエスの復活を知らせ、イエスの墓を尋ねていくというもの。

初演ポスターに掲載されたマグダラのマリアは、水衣に着流という出立。
アトリビュートの香油壺は、写真では持っていない。

個人的には、ペテロの罪悪感・絶望感が前場の眼目のような気がします。


〈後場〉
さて、この日上演された後場は、ペテロたちがガリラヤ湖で漁をしている場面。
はじめは不漁で魚が網にかからなかったのが、岸辺に立つ人影の教えに従い、網を打ったところ、大漁となる。
その人影こそ、誰あろう、復活したイエス(後シテ)だった!
自分を裏切ったペテロにイエスは問う、「ペテロよ汝、誰よりも、われを愛するや」。
ペテロは答え、弟子たちとともに歓喜にむせびながら、主を讃える。


裏切りと悔恨に満ちた聖書物語。
そういう、人の弱さ・愚かさを描いているところがとても好きで、
この新作能《復活》も、前場からペテロの心の動きを追っていくと、時代を超えて誰の胸にも響く人間の業と、その業を乗り越えて高みを目指す志向心が表現されていると思う。
能としての上演が待たれるところです。

(詞章には「舞」としか記載されていないのですが、復活したイエスの舞って、どんなものだろう? 神舞? 太鼓序ノ舞? 天女ではないけれど、まさかの下リ端?)


本曲のキーパーソンとなるペテロを勤めたのは佐々木多門さん。
悔悟の情が底流する厳粛な謡から、イエス復活の歓びにあふれた謡へと変化して、この素謡のテーマをそれとなく感じさせた。

中堅と若手で構成される地謡は美声の人が多く、節付けの妙とあいまって、「雲はかかやき風は凪ぎ、見よ全能者の右にいますは」のところは、どこかグレゴリオ聖歌を思わせる荘厳さ。

「聖なるかな……永遠にいます主を讃えん」という聖書的な文言が、謡の節で謡われるのは、なんとも不思議な感覚です。
こういうのも繰り返し再演され練られていくうちに、和様化された洋食のような親しみのある美味しさに変わってゆくのかもしれません。



半能《夢殿》につづく





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