2018年5月1日火曜日

片山九郎右衛門の舞囃子《弱法師・盲目之舞》・吉阪若葉会その1

2018年4月30日(月) 京都観世会館

舞囃子《弱法師・盲目之舞》 片山九郎右衛門
   森田保美 社中の方 河村大
   地謡 河村和重 河村晴道 浦田保親



九郎右衛門さんの舞台は、どうしてこれほど深く胸を打つのだろう。
途中からグッと何かが込み上げてきて、涙で視界がかすんだ。わたしの後ろの席の人もすすり泣いていた。

「型」という枠が、これほど豊かな表現を可能にする無限性を秘めていることを実感させる舞囃子でもあった。



「東門に向かふ難波の西の海」で、シテは右手に扇、左手に杖を持って立ち上がる。

シテが突く杖はほとんど床に触れることなく、ずっと宙に浮いたまま微かに上下しながら、右へ左へ揺れつつ盲目の俊徳丸を誘導してゆく。

中空を揺れるその杖は、松虫の触角さながらの鋭敏な感覚器官のようで、空気のわずかな揺れにも敏感に反応する、俊徳丸の感じやすく繊細な心のあり方を想像させる。

盲目の俊徳丸━━。
シテはほとんど終始、目を閉じ、その瞼に黄昏色のライトが夕日のように反射して、閉じた目を腫れぼったく見せている。
腫れぼったい閉じた目……その顔は弱法師の面を彷彿とさせた。
先日の仕舞《隅田川》の時に九郎右衛門さんの顔が深井の面と二重写しになったように、不思議なことに、この時もシテの顔が弱法師のおもてに見えたのだ。

別に形態模写をしたわけでもないのに、シテの顔が役のおもてに見えるのは、舞い手が役に没入しているからだろうか、それとも、こちらがあまりにも惹き込まれているからだろうか。


「今は入日や落ちかかるらん」で、シテは閉じた目で西の空を見つめる。
見ているのに、見ていない。
彼が見ているのは自分の心のなかだけであり、心の闇に灯る微かな光を見ているようだった。
孤独と苦悶の果てにたどり着いた、孤高という名の、誰にも立ち入ることのできないユートピアに俊徳丸は生きていた。


「満目青山は心にあり」で、シテは何かを心に押し込めるように、掌で胸をドンと強く打つ。

見たいものは、すべて心の中にあった。
難波の浦の致景も、春の緑の草香山も。


あのときの俊徳丸は、自分の心以外の何物も必要としない絶対的な孤独のなかにいた。
誰がどんなに同情しても、共感しても、
どれほど深く彼を愛しても、それを必要としない絶対的な孤独の姿。
それが九郎右衛門さんの描いた弱法師だった。



九郎右衛門さん演ずる俊徳丸の姿は、繊細で傷つきやすく、何よりも孤独を愛し、自分だけの世界に生きる現代人の姿と重なり、さらには、牽引者としてつねに孤独な闘いに挑んでいる九郎右衛門さん自身の姿とも重なった。


弱法師の深い闇、影の部分。
これこそ、わたしが観たかったもの、求めていたものだった。






吉阪若葉会その2へつづく















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